放置された憎しみ 創世記37章

 ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちの誰よりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった(創世記37章4節)。
 


 ヨセフの生涯は創世記の37-50章にかけて記されています。そして、37章には、ヨセフが17歳の時、兄たちの強い憎しみによって奴隷として売られたことが記されています。

 ヨセフは早くして母を亡くし、母親が違う10人の兄たちの中で成長しなければなりませんでした(35:23-)。長男ルベンは父の側女と性的な関係をもって父の名を汚し(35:22、Ⅰ歴代5:1)、次男シメオンと三男レビはレイプされた妹のために計略をもってシェケムの男たちを虐殺するような者たちでした(34章)。父ヤコブとすれば、年老いてから産まれた最愛の妻ラケルの長男ヨセフこそ自分の後継者として考えていたのでしょう。他の兄弟たちとは差別して、彼には「あや織りの長服」を着せ、彼に特別な愛情を注いでいました(3,4節「だれよりも」)。

 兄たちの憎しみが寵愛をする父ではなく、弱い弟に向けられたことは自然なことだったでしょう。兄たちの憎しみは父の偏愛ばかりでなく、ヨセフの言動によっても増幅されました(5,8節「ますます彼を憎むようになった」)。2節には、兄たちの「悪いうわさ」をヨセフが父に告げたことが記されています。そして何よりも兄たちの感情を逆撫でしたのは、ヨセフが見た二つの夢を臆面もなく語ったことでした(7,9節)。その夢は、これから起ころうとしていることを神がヨセフに啓示しておられたのですが、兄たちからすれば、父のお気に入りが偉そうなことを語っているとしか受け止められませんでした。

 兄たちの「ねたみ」(11節、使徒7:9)や「憎しみ」から来る敵意は、父がいるところでは抑制されていました。しかし、父のいないところではそうではなくなりました。父の使いでやって来るヨセフを見たとき彼らの憎しみは明確な殺意となりました(20節)。

 「ねたみ」や「憎しみ」が放置されるとどのような結果になるかは、ヨセフの兄たちのケースだけではなく、「カイン」や「サウル」にも見られます(創世4章、Ⅱサムエル18章)。パウロは人がクリスチャンになる前の堕落した特徴を「ねたみ」や「憎しみ」ということばで表わしています(テトス3:3)。箴言は「憎しみは争いを引き起こし」(10:12)と警告しています。

 罪はさらに他の罪を発生させます。兄たちはヨセフを殺すことはしませんでしたが、ヨセフの人生を破壊し、夢の実現を阻止しようとしたのです。そして、父にはヨセフが獣に裂き殺されたと思わせるように偽装工作をしたのです(31,32節)。父は慰めを拒むほどの深い悲しみに陥りました。兄たちは父の悲しみを見て、きっと後悔したに違いありません。ヨセフを取り除いて、兄たちの気持ちは一時的には晴れたかもしれませんが、弟を売った罪悪感は彼らの心に残り続けたのです(42:21)。

 誰も自分の生まれる環境(国、親や家庭など)を選ぶことはできません。その人の置かれた状況や直面した問題によっては、その人のねたみや憎しみをよく理解できるということもあるでしょう。しかし、だからといってそれらを安易に放置することはとても危険です。ある人は「ねたみ」とは、最終的には神さまに対するものであることを指摘しています。「神さまは私が欲しいと思っているものをくださらない」と言っているのだと。ねたみ(ガラテヤ5:21、マルコ7:22)や憎しみを神の前に罪として悔い改め手放し、今ある恵みに目をとめましょう。ねたみや憎しみを放置することは、誰かの、またあなたの人生に害をもたらすことになるからです。


              このメッセージは2022.1.16のものです。