試練の中を生きる 創世記40章

 ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった(創世記40章23節)。

 兄たちによって奴隷として売り飛ばされたのが17歳、そしてエジプトの宰相になるのが30歳、ヨセフにとってこの13年は試練の期間だったでしょう。暗くて浮き沈みのあるこの期間を彼はどのように生き、また、それはヨセフの人生にとってどのような意味をもつものだったのでしょうか。

 主人ポティファルの大きな信頼を得るまでになっていたヨセフは主人の妻の誘惑を拒絶したために、理不尽にも投獄されてしまいます。マイナスからの出直しといったところでしょう。そこからヨセフは、監獄の長から囚人たちを任されるまでに信頼を得るようになっていきます。そして、そこに王に「過ちを犯した」ために怒りをかった二人の廷臣、献酌官長と料理官長がヨセフのいる監獄に入ってきました。ヨセフはその二人の付き人となり、彼らの世話をすることとなりました。

 ある日の朝、ヨセフは二人の「顔色がすぐれ」ないことに気づきました。その訳を尋ねると、二人は夢を見たが、それがどのような意味をもっているかわからないためでした。ヨセフは付き人として当然の気配りをしているだけと言えるかもしれせんが、どこにあっても任されている務めに忠実な彼の一面を見るのではないでしょうか。辛い経験をしてきているのに、自分のことで頭が一杯という生き方をしていないのです。

 ヨセフは、二人の廷臣に「解き明かしは、神のなさることではありませんか。さあ、私に話してください」と言っています。ヨセフは、次の41章でもそうですが、臆することなく確信をもって夢の解き明かしをしています。彼は神からその賜物を与えられていたのです。ヨセフがそのことを十分にわきまえていたことは、王の前に引き出された際の言葉にも見いだすことができます(41:16)。それはまた後のダニエルにも見られるものです(ダニエル2:28-)。誰かのできないことができると、誰かが知らないことを知っていると誇りたくなるのではないでしょうか。しかし、ヨセフは神に栄光を帰しながら歩んでいるのです。

 ヨセフは献酌官長と料理官長の夢を解き明かし(9-13,16-19節)、彼が解き明かしたとおりにそれは現実のものとなりました(22節)。献酌官長の夢の解き明かしの後には、この監獄から出られるように王へのとりなしを依頼し、自分の無実を訴えています(14-15節)。

 ヨセフの「どうかわたしを思い出してください」(14節)との訴えに、献酌官長がどのように答えたかは記されていませんが、23節の「ところが、献酌官長はヨセフのことを思い出さないで、忘れてしまった」との言葉には、ヨセフの期待が裏切られてしまったとの意味が込められているように思われます。間もなく釈放されるとの期待は打ち砕かれ、結果的には2年の時を待たなければならなかったのです。

 ヨセフの試練は彼の人生にどのような意味をもつものだったのでしょうか。詩篇105篇19節には「彼(ヨセフ)のことばがそのとおりになるときまで 主のことばは彼を練った」とあります。「練った」とは、金属を炉に入れて不純物を取り除き純粋にすることを意味することばです。神は試練を通して、ヨセフの信仰を強め、さらに大きな管理者として立つことができるように整えておられたのです。試練のただ中にあるとき、それが自分の人生にどのような意味を持っているのかわからないかもしれません。しかし、神はご自分の器としてあなたを整えようとしておられるのです。希望を捨ててはなりません。


                         このメッセージは2022.1.30のものです。