兄たちを試すヨセフ 創世記42,43章

 

 ヨセフが解き明かしたように、7年の豊作の後には7年の飢饉が訪れました。飢饉はヤコブたちが住むカナンにおいても深刻で(5節)、ヤコブは兄息子たちにエジプトへ穀物を買って来るように命じました(2節)。42章には、エジプトへ穀物を買い付けに行った1回目の様子が記されています。場面は三つに分けることができるでしょう。

 1-5節は、場所はカナンです。父のヤコブは末の弟息子のベニヤミンを失うことを恐れて、兄たちに同行させなかったことが説明されています。

 6-28節は、場所はエジプトです。買い付けに行った兄たちはヨセフと対面し、彼の前にひれ伏しています(6節)。ヨセフには兄たちであることが分かりましたが、兄たちにはヨセフであることが分かりませんでした。離れて20年以上が経過していたこと、彼らの間には通訳がいたこと、まさかヨセフが権力の座に着いているとは考えもしなかったからでしょう。

 ヨセフは、兄たちにエジプトの内情を探りに来た「回し者」の疑いをかけています。彼らは自分たちが「正直者」であると弁明しますが、ヨセフは彼らがもし正直者であるなら、誰か一人がカナンに行って末の弟をエジプトに連れて来て、それを証明するように求めたうえで、彼らを三日間監獄に入れました。その後で、思い直したヨセフは一人を人質として残して、後の九人がカナンに行って末の弟を連れて来るように要求しました。

 監獄に入れられた兄たちは、自分たちの苦しみは弟のヨセフにしたことの「罰」や「報い」を受けていると受け止めています。兄たちは、ヨセフに対する酷い仕打ちを忘れていたわけではなかったのです。20年以上が経過していましたが、彼らは罪責感を抱えながら生きてきたのです。そのことを知ってヨセフは涙を流しています(24節)。

 ヨセフが正体を明かして自分を名乗るのは、兄たちがベニヤミンを伴ってエジプトに来た時になりますが(45:5)、それまでのヨセフの兄たちに対する取り扱い(42-44章)を非難する人もいるかもしれません。しかし、ヨセフの心には兄たちに対する憎しみや敵意は見られません。彼は兄たちの心の中にあるものを知るために試したのです。

 29-38節は、場面はカナンです。兄息子たちはエジプトから戻って父にエジプトでの出来事を報告しています。その中で、末の弟のベニヤミンを連れて行かなければ回し者との疑いは晴れず、また人質となっているシメオンが解放されないことを伝えています(34節)。

 兄息子たちの報告を聞いたヤコブは、最悪のシナリオを考えて、ルベンの説得を受け入れようとせず(37,38節)、ベニヤミンをエジプトに連れて行くことを頑なに拒んでいます。ヨセフを失った心の痛手は癒えておらず、さらにベニヤミンまでも失うことに耐えられなかったのです(36節)。そのような父の姿を見るにつけ、その原因を作った自分たちの罪に、兄たちは向き合わされたのではないでしょうか。

 兄たちはヨセフから試されるなかで、自分たちの罪へと向き合わされていきます。言い換えるなら、兄たちは神の取り扱いの中で赦しの恵みを受けるために罪の悔い改めへと導かれているのです(44:16)。だれも自分の醜い罪の現実に向き合うことは快くないでしょう。しかし、神の赦しの恵みの素晴らしさが分かるためにはそれが必要ではないでしょうか。主が語られたたとえ話(マタイ18:23-)に登場する一万タラント赦されたしもべは、他の仲間を赦そうとはしませんでした。彼はそのことによって負債(罪)の赦しという恵みをしっかりと受け止めていなかったことを明らかにしています。罪の赦しが分かるのは、罪が分かるからなのです。


                このメッセージは2022.2.13のものです。