主の変貌と不信仰 マルコ9章2-29節

 

 今回の箇所(2-29節)は、三つに分けることができます。2-8節は高い山で主イエスの「御姿が変わった」場面です。9-13節は、山を下る途上での、主と三人の弟子たちとの会話です。14-29節は、父親の願いにこたえて主が悪霊につかれた少年から悪霊を追い出される場面です。

 主イエスが三人の弟子を伴って「高い山に登られた」時のこと、弟子たちは主の「御姿が変わ」るという光景を目の当たりにしました。神の御子としての栄光を、弟子たちはその目で垣間見ることができたのです。

 弟子たちは、主だけではなく、主とエリヤとモーセが語り合っているのも見ました。エリヤはバアルの預言者たちと対決し、また死を経験しないで天に引き上げられた預言者です。モーセはイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放した指導者であり、神から律法を授かった人物です。両者は旧約聖書を代表する人物です。二人に共通するのは、シナイ山で自分の前を通り過ぎる神の姿を見、神の声を聞いた者たちであり、(出エジプト33:17-23、Ⅰ列王19:9-13)、背信の民によって苦しんだ指導者であるということです。

 マルコは、主とエリヤとモーセが何を語り合っていたのかについては明らかにしていませんが、ルカは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について、話していた」(9:31)ことを明らかにしています。「最期」(エクソドス)とは、「死」のことです。弟子たちは、栄光に満ちた「神の子」の「死」を想像することはできなかったでしょうが、それは旧約聖書の預言の成就であったのです。

 弟子たちは、目で見る体験だけではなく、耳で聞く体験もしています。雲に包まれた中から、父なる神の「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」(7節)との言葉を聞きました(参 1:11)。それは三人の弟子に語られた言葉であり、主の死を受け入れ(8:31)、主に従う(8:34)ことこそ弟子としての道であることを父なる神は示されたのです。

 主と三人の弟子たちが山から下って、「ほかの弟子たちのところに戻ると」、彼らは律法学者たちと論じ合っていました(14節)。もしかすると、弟子たちが少年から悪霊を追い出せなかったことが論点となっていたのかもしれません。主はこの後で、その少年から悪霊を追い出されますが、これは主が悪霊を追い出す最後の箇所です(参 1:25,34,39,3:12,5:8)。これまでの悪霊の追い出しでは、悪霊に対する主の圧倒的な力に焦点があったとするなら、ここでは悪霊を追い出せなかった弟子たちの無力さと父親の不信仰に焦点があてられていると言えるかもしれません。

 悪霊につかれた少年については、18,20,22、26節から深刻で絶望的な状態であったことがわかります。我が子の苦しむ姿は父親にとってさぞかし辛いものであったに違いありません。彼は弟子たちに悪霊からの解放を期待しましたが、弟子たちにはそれができませんでした(18節)。そのために落胆した父親の信仰は揺らいでしまい、それが主に対して「おできになるなら」という言葉になったと思われます。主はその父親に「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(23節)と確かな信仰を求められました。彼は自らの不信仰を認めて、改めて憐れみを求めています。主の「信じる者には、どんなことでもできるのです」とのことばは、信じる者には、利己的な願いでも何でもかなえられるとの約束ではなく、信じる者は神の力に制限を設けない、という意味です。私たちの不信仰が神の力を制限することがないようにしましょう(参 マタイ13:58)。


             このメッセージは2024.4.21のものです。