変わらない赦し 創世記50章

 ヨセフの生涯を創世記37章からたどり、そしていよいよ110歳で臨終を迎える最後の50章へとやってきました。ここには涙を流すヨセフの姿が二回出て来ます(1,17節)。これまでに何回も涙を流してきましたが(42:24,43:30,45:2,14,15, 46:29)、ヨセフの涙は弱さというより彼の愛情深さを示しているように思います。エジプトを支配するようになっても、その心はしなやかさを失うことはなかったのです。

 3節には「エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しんだ」とあります。その後のカナンに向けての大きな葬列の規模を考えるときに(8,9節)、ヨセフがいかにエジプトにおいて力を持ち、敬われていたかを伺うことができます。

 ヨセフは父が亡くなると、その遺体を防腐処理して、ファラオにカナンへ行って父を葬る許可を求め、父の遺言を実行しています。ポティファルに、看守に、そしてフォラオに仕え、今は亡き父に仕える姿からは、彼の誠実さを読取ることができるのではないでしょうか。

 父が亡くなったあと、解決済みの問題と思っていたことが、実はそうではなかったことが明らかとなります。ヨセフはそれを知って涙を流しています。17年前にヨセフは涙の抱擁をして兄たちを赦したはずでした。しかし、兄たちの方では、そのヨセフの赦しをしっかりと受け止めていなかったのです。兄たちは自分たちのした悪に対してヨセフが仕返しをするのではないかと恐れていたのです。

 兄たちは人を介して、父が生前、兄弟の関係を案じて、ヨセフに兄たちを赦すように遺言していたことを、謝罪の言葉と共に伝えてきました(16,17節)。果たして兄たちが引用した父の言葉は本当だったのでしょうか、それともヨセフの復讐を恐れたためのうそだったのでしょうか。うそだという確証はないという人もいますが、私としてはうそだったのではないかと思います(父を敬っているヨセフなら、父の命じることに従うだろうと思ってのことでしょう)。なぜなら、もし父ヤコブがヨセフの赦しの真実を疑っていて、自分の亡き後の兄弟関係を心配していたなら、兄たちにではなく直接ヨセフに「赦してやりなさい」、と伝えていたと思うからです。

 ヨセフは兄たちの言葉を聞いて泣きました(17節)。ヨセフの涙の理由は説明されていませんが、本当に赦しているのにその赦しが理解されてこなかったことへの悲しみでしょう。また、赦されていることを受け止められずに、ずっと心のどこかで不安を抱えたまま生活してきた兄たちの心情をあわれに思ったからでしょう。

 ヨセフの兄たちの例から、赦しにおいて、誰かを赦すことばかりでなく、誰かの赦しをしっかりと受け止めることも時には非常にむずかしいということが分かります。神だってこんなひどいことをした自分を、また何度も同じような罪を繰り返している自分を簡単に赦してくれるはずがない、と思っている人がいるかもしれません。しかし、神の赦しを疑うことは、すでに払われた神の御子の犠牲が不完全だというのに等しいことであることを知る必要があります。神の赦しは完全で、むしかえしはありません。神の赦しをしっかり受け止め、新しい歩みをはじめましょう(参 ヨハネ8:11,ローマ8:1)。

      
 このメッセージは2022.3.27のものです。なお、ヨセフの生涯(計11回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『神の臨在の中を生きる』(B5版、27頁)にまとめられています。