神の臨在の中を生きる 創世記39章

 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た(創世記39章3節)。


  兄たちによってイシュマエル人の商人に売られ、エジプトへ連れて行かれたヨセフは、「ファラオの廷臣で侍従長のポティファル」に買い取られました。愛する父から引き離され、言葉も分からない、宗教や文化も異なるエジプトで奴隷として主人に仕える生活が始まりました。

 ヨセフはどのような思いでエジプトでの新しい生活を始めたのでしょうか。今に見ていろ!必ずこの状態から抜け出して、自分を売り飛ばした兄たちに復讐してやる、と憎しみや怒りの思いを抱き続けていたのでしょうか。それとも、神さまがおられるなら、どうしてこのような理不尽なことが起こるのをお許しになるのかと嘆き、自己憐憫に陥っていたのでしょうか。それとも、絶望して自暴自棄になっていたでしょうか。どうやら、そのどれでもなかったようです。

 この39章の初めと終わりの部分には、同じことばが四回繰り返されています。それは「主が(は)ヨセフ(彼)とともにおられた」(2,3,21,23節)という表現です。そして、主が彼とともにおられたこと(原因)の結果として、主が彼のすることを成功させてさったことが繰り返されています。

 3節には、それを「主人は・・・見た」との言葉もあります。そして、主人はヨセフを信頼して「全財産」(4,5,6節)を管理させるまでになるのです。もちろん、このような大きな信頼を獲得するには、ある程度の時間を要したでしょうし、忠実に仕えるヨセフの姿があったからでしょう。

 後には、無実の罪で監獄に入れられてしまいますが、監獄の長からも信頼を得て監獄の管理をまかされるようになっています(22節)。場所や仕える人は変わりますが、その置かれた場で忠実に主人に仕えているヨセフの姿をみることができます。

 ところで「主がともにおられる」とは、どういうことでしょうか。エノクやノアには「神とともに歩んだ」という表現があります(創世記5:4,6:9)。「主がともにおられた」には、神からの恵みが、一方「主とともに歩んだ」には、神に応答して生きる人の信仰が強調されているように思います。しかし、ヨセフの生き方から、それは一つであるように思われます。主人の妻の誘惑を退けるに際してヨセフは「そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」と言っています。神に反抗して歩んでいたが、それにもかかわらず神がともにいてくださって、神がヨセフを祝福してくださったというより、神がともにいてくださるという臨在を覚えつつ、ヨセフは神とともに歩み、そのヨセフのすることを神が成功させてくださったということではないでしょうか。

 主がともにおられる、という神の臨在の約束は、聖書に登場する多くの人々がいただいています(創世記26:3、24、28:15、ヨシュア1:5ほか多数)。そして、今日、その臨在の約束は私たちにも与えられています(マタイ28:20、ヨハネ14:16、23)しかし、私たちは臨在を頭では理解していても、実生活の中では見失って歩んでいることが多いのではないでしょうか(参 創世28:16)。

 この39章は、苦難の中をどのように生きるのか、また誘惑にどのように勝利するのかという(7節- このポイントについては説教集を見てください)優れた実例を、ヨセフの生き方から学ぶことができる箇所です。約束されている神の臨在を意識しながら、歩んでいきましょう。


                 このメッセージは2022.1.23のものです。