ペテロの告白と無理解 マルコ8章22節-9章1節

 

 マルコの福音書のほぼ真ん中までやってきました。8章29節のペテロの告白は、重要な転換点と言っていいでしょう。なぜなら、このペテロの告白以降において、主はご自身の死と復活を弟子たちに「教え始められ」ているからです(31節)。10章までの間に、同じような予告があと二回出てきます(参 8:31,9:31,10:33-34)。計三回の予告に続く文脈には、共通点があります。まず、弟子たちはその予告を正しく理解できなかったということです。(8:32,9:33-34、10:35-41)。その後に、主は弟子としてどのように歩むべきかということを語られているということです(8:34-38,9:35-37、10:42-45)。主はご自身の死に弟子たちを備えさせ、エルサレムへ(参 10:32)、そして十字架の死へと向かおうとしていることがわかります(参 15:24)。

 さて、ペテロの告白から見ていくことにしましょう(並行記事:マタイ16:13-、ルカ9:18-)。舞台は、ガリラヤ湖から北約40キロにあるヘルモン山のふもとの「ピリポ・カイサリア」へ行かれる道中のことです。主は弟子たちに二つの質問をしておられます。一つは他の人々がご自身のことを何者だと言っているか(27節)、もう一つは弟子たち自身がどのように理解しているか(29節)、です。二つ目の質問を受けて弟子たちを代表してペテロが「あなたはキリストです」と告白しました(マタイ16:16「あなたは生ける神の子キリストです」)。弟子たちは、誰よりも主の権威ある教えを聞き、さまざまな奇跡を目の当たりにしてきた者たちです。それらの体験がペテロの告白へと繋がっていると言っていいでしょう。

 主を何者だと告白するのか、それは福音書を読むひとりひとりに問いかけられている最も重要な質問です。ある人は、神から遣わされた預言者だと答えるでしょう(28節 参 6:14-15)。ある人は、ユダヤの堕落し、形骸化した宗教を改革するために立ち上がり、志半ばで殉教したお方と答えるかもしれません。またある人は、人類史において最も大きな影響を与えた偉人、また道徳や倫理の模範的な教師と答える人もいるかもしれません。そういった面が全くないわけではありませんが、それらは主が期待している答えではありません。ペテロの告白こそ、主が期待しておられる告白なのです。

 しかし、残念ながらペテロの告白は主の使命を正しく理解したものではないことがすぐに明らかになります。並行箇所のマタイでは、ペテロが主をいさめた言葉があります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」(16:22)。ペテロは主のことばを正しく受け止められませんでした。それはペテロだけではなかったでしょう。当時の人々が期待していたキリストは、ローマの圧政から自分たちを解放してくれる軍事的、政治的な王であり、「捨てられ、殺され」るような者ではなかったからです。

 ペテロは主から「下がれ、サタン」と厳しく叱責されています。ペテロの発言は、かつてこの世の栄華との引き換えに、十字架の死を回避させようとしたサタンと変わらないものであったのです(マタイ4:8-10)。ペテロは、主が父から遣わされた最も重要な使命である十字架の死を否定していたことに気づいていなかったのです。

 十字架は今でも人々のつまずきでしょう(参 Ⅰコリント1:23)。しかし、「十字架」は救いのために父なる神が備えられた道であったのです。ペテロのように自分たちの期待するキリスト像を創出するのではなく、福音書に啓示されているそのままのキリスト像をしっかり受け止めていきましょう。

           このメッセージは2024.4.14のものです。