奇跡と不信仰 マルコ8章1-21節

 

 五千人の給食の奇跡は四つの福音書すべてに出てきますが、今回の四千人の給食の奇跡はマルコ(8:1-8)とマタイ(マタイ15:32-39)のみです。似たような奇跡ですが、細かな点では違っています。では、今回の給食の奇跡の意義はどこにあるのでしょうか。それは、主は異邦人に対してもあわれみ深いお方ということではないでしょうか。

 主が群衆を養われた動機はあわれみです。2節の「かわいそうに」と訳されている動詞は、6章34節では「深くあわれみ」と訳されています。シリア・フェニキアの女性はあわれみが異邦人を排除するものではないことを信じて主に懇願し続けました。ユダヤ人たちは異邦人を軽蔑し排除していましたが、主は今回の奇跡をとおして、ご自身がユダヤ人だけではなく異邦人に対してもあわれみ深いことを示されたのです。

 主が異邦人の地からユダヤ人の地域(ガリラヤ湖の西側)に戻られると(10節)、そこへパリサイ人たちがやって来て、「天からのしるし」を求めました(12節)。彼らは主の権威が神からのものなのかどうかの証拠を求めたのです。それに対して主は「どんなしるしも与えられません」と拒絶しています。なぜでしょうか。考えられる理由の一つは彼らの求める動機に悪意があるからです。パリサイ人の動機について「試みようとした」とあります。彼らは素直に謙虚な心で真理を尋ね求めようとしているのではないのです。そこには主を陥れようとする悪意があるのです(参 10:2,12:15)。

 もう一つは、すでに十分なしるしが与えられているにもかかわらず信じようとしないからです。主の権威あるさまざまなみわざ(奇跡)はすでに大勢の人の知るところとなっていました。当然パリサイ人たちも知っていたはずです。2章では、主は神だけがもっている罪の赦しの権威をご自身が持っていることを示すために中風の人を癒しておられます(2:10-13)。3章では、主の悪霊の追い出しを悪魔との共謀だとしてその権威を認めようとしないパリサイ人の姿があります。彼らのかたくなな心では、たとえどのような「しるし」が与えられたとしても彼らが納得することはないからです。

 主と弟子たちはパリサイ人たちのもとを去り、再び舟にのって向こう岸(22節「ベツサイダ」)へと渡ろうとしています(13節)。その舟の中で主は「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい」(15節)と弟子たちに警告されました。「パン種」とは「酵母」のことです。「パン種」は良い意味でも使われていますが(マタイ13:33)、多くの場合悪い意味で使われています(参 マタイ16:12,ルカ12:1,Ⅰコリント5:6)。「パリサイ人のパン種」と「ヘロデのパン種」が何を意味するかについは、いろいろな議論がありますが、おそらく、彼らの不信仰を指していると考えられます。

 弟子たちは、主の「パン種」という言葉から十分なパンがないことを主によって責められていると誤解して、だれの責任だろうかと言い合っています。それを見て、主は彼らに強い叱責の問いかけを繰り返して、そうではないことを理解させようとしています。ここにも霊的な真理を理解するのに鈍い弟子たちの姿があります。主はこの後もその鈍い弟子たちを忍耐をもって導こうとしておられます。弟子たちは主に従っていた者たちであり、パリサイ人たちのような悪意をもっていませんでした。しかし、わずかな「パン種」が彼らのうちにもひそかに影響を与えようとしていたのです。私たちも不信仰という「パン種」に警戒する必要があります。


         このメッセージは2024.4.7のものです。