親子の涙の再会 創世記46章
主が語られた有名なたとえ話に「放蕩息子のたとえ」があります。そこには放蕩の果てに帰って来た息子を父が抱きしめる感動的な再会シーンがあります。そしてこの創世記46章には、息子が父を抱きしめる再会シーンがあります(29節)。突然引き離された親子は実に22年ぶりにエジプトにて再会を果たすのです。
ヨセフの兄弟たちがカナンから食料を買い出しに来たことを知ったファラオは、ヨセフに父の全家族をエジプトへと呼び寄せるように促しました。王のそのような好意はヨセフがいかに王の信頼を得ていたかの一端をうかがわせます。
一方、カナンへと戻った兄たちは、父にヨセフが生きていること、しかもエジプトの宰相になっていること、そして、その彼が「急いで」(45:9, 13)エジプトに来るように招いていることを伝えました。兄たちは父にヨセフが生きていることを伝えるにあたって、これまで父を欺き続けてきたことを打ち明けたのではないかと思われます。
ずっと死んだと思っていたヨセフが生きているとはヤコブは信じられない思いでしたが、ヨセフが乗るために差し向けてくれた車を見て、彼は「元気づ」き、再会のためにエジプトへ行くことを決意します(45:28)。
ヤコブは一族や家畜などを伴ってエジプトへと出発しますが、カナンの南端の「ベエル・シェバ」に来た時、父イサクの神にいけにえをささげました(1節)。ベエル・シェバは祖父アブラハム以来のゆかりの地です(21:33,22:19)。そこは父イサクが祭壇を築いた場所であり(26:23-25)、ヤコブが兄エサウの怒りから逃れるためにカランへと旅立った場所でもありました(28:10)。状況は備えられておりエジプトに行くことに問題はなさそうです。しかし、ヤコブには約束の地(参35:12ほか)を離れることに不安があったようです。かつて神が父イサクに対してききんに際してエジプトにくだらないようにと命じられたことを覚えていたに違いありません(26:1-5)。
ヤコブがベエル・シェバで祭壇を築いていけにえをささげたのは、最終的な神のみこころを知りたいとの思いがあったからではないでしょうか。その彼に対して神はご自身を啓示され、「エジプトに下ることを恐れるな」と、その不安を打ち消されました。そればかりでなく、共にいてくださること、彼の子孫をふやし「大いなる国民」(12:2 アブラハムは「大いなる国民」となるためにカナンに来て、一方ヤコブは「大いなる国民」となるためにカナンを離れてエジプトへ行く)とすること、やがて子孫たちをエジプトからカナンへと連れ戻されること、また彼自身はヨセフのもとで安らかな死を迎えることを神は約束されました。ヤコブは備えられた状況と確かな神の声に勇気づけられて、一族を引き連れてエジプトへと向かったことでしょう。
エジプトへとやって来たヤコブは、息子ヨセフとの感動の再会を果たします。かつて愛する者を失って死にたいと嘆いていた父が(37:35)、ここではもう思い残すことはないとの思いを口にしています(46:30)。
ヤコブはかつてカランへの旅においてと同様に(28:11-)、共にいてくださる神の約束を握りしめてエジプトへと赴きました。愛する息子が待っていようとも、備えられた状況が確かにエジプト行きを支持していたとしても、名前をもって呼ばれる神の御顔を仰ぎ、「はい、ここにいます」(参 創世22:1,Ⅰサムエル3:4)との応答をもって神の声を聞く姿勢を忘れてはなりません。
このメッセージは2022.2.27のものです。