ピレモン21-25節 交わりと赦し

 互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです(エペソ4章32節)。


 
 パウロは手紙の結びで(21-25節)、ピレモンへの大きな信頼を明らかにし(21節)、近いうちに釈放されてピレモンのもとへ行けることを期待しています(22節)。

 21節のパウロの「私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています」の「私が言う以上のこと」とは、具体的には何を意味しているのでしょうか。間もなく釈放されるという期待からは、ローマにオネシモを送り返して自分に仕えることができるようにしてほしいという意味ではないように思われます(13節)。では、奴隷の立場からの解放までを考えていたのでしょうか。そこまでは明確にはわかりません(「私を迎えるようにオネシモを迎えてください」とは、はっきり言っているが)。なぜなら、パウロははっきりと述べていないからです。仮に奴隷から解放することを意味していたとしても、ピレモンの自由な意志によることをパウロは願っていたと言えるでしょう(14節)。

 私たちは、パウロが一人の奴隷のために心を砕いてとりなしをしていることを見てきましたが、そのとりなしは受け入れられたのでしょうか。パウロとピレモンとの関係性や、この手紙がこのように残っていることから、パウロの願いが受け入れられたと推測することができるのではないでしょうか。この手紙はピレモンへの個人的な手紙でありながらも、公的に読まれることが期待されていました。もしピレモンがパウロの願いを無視したならば、近々訪ねるであろうパウロばかりでなく、手紙の存在を知って挨拶を送っていた同労者たちをも失望させたに違いありません。

 この手紙のテーマは「交わり」であることを繰り返し話してきました。信仰は、従来の主従関係を越えた、「愛する兄弟」(16節)という交わりに、ピレモンとオネシモを導き入れています。この「交わり」を維持していくために大切なことは何でしょうか。ヨハネは「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち」(Ⅰヨハネ1:7)と言っています。

 不完全な者たち同士が良好な交わりを保つためには、自分たちが信仰によってどのような関係(エペソ2:19「神の家族」、ガラテヤ6:10「信仰の家族」など)に導き入れられているかを忘れないことです。また「悔い改め」(ルカ17:3-)と「赦し」の大切さもあげることができるでしょう。被害者側に一方的に「赦し」だけを強調するなら、バランスを欠くことになるでしょう。また加害者側にも、あのような言動は本当に悔い改めているように思えない、簡単に赦すことは相手のためにならない、などといった理由をもって赦しを拒むということがあるかもしれません。

 主イエスは兄弟間の赦しの問題を教えるために「無慈悲なしもべ(家来)のたとえ」(マタイ18:21-35)を語られました。1万タラント(20万年分の労賃に相当)の負債を憐れみによって赦されたにもかかわらず、100デナリ(60万分の1)の負債を赦さなかった家来とは、神の豊かな赦しにあずかりながら、その憐れみを忘れて他の兄弟を赦そうとしない兄弟の姿を教えています。王が語った「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか」(33節)とのことばは、兄弟を赦そうとしない者に語りかけられていることばなのです(エペソ4:32)。神はあわれみ深い方です。そして、その子どもたちにもあわれみを期待しておられるのです(ルカ6:36)。


                      このメッセージは2022.1.9のものです。