ヨセフに見る赦し 創世記44,45章

 ヨセフは兄たちを試しています。それは、かつての自分と同じように父の寵愛を受けている弟を見捨てるかどうかを見るためです(1-17節)。18-34節のユダのヨセフに対する長い訴えが、その答えとなっています。

 かつてはヨセフを奴隷として売ることを提案したユダが、ここではベニヤミンの代わりに自分が奴隷になることを申し出ています。ヨセフを売り飛ばした時には、父がどのように悲しむかということを全く考えもしなかった者が、ここではもうこれ以上父を悲しませたくない、という思いを述べています。

 ヨセフは、ユダの言葉から父やベニヤミンへの愛情を知った時、もはや自分を制することができませんでした(43:31)。人払いをして、「声を上げて泣」きました(三回目)。そして、「私はヨセフです」と名乗り、自分を売った兄たちに優しい言葉をかけ、赦しを明らかにしています。45章14,15節には、兄弟たちを抱いて泣くヨセフの姿があります。ヨセフの生涯におけるクライマックスの場面です。ヨセフの赦しから私たちはどのようなことを見ることができるでしょうか。

 まず、その赦しは「心からのものであった」ということです。彼の赦しは、「赦します。でもあの人とはもう口もききたくありません。もういっしょに何かをすることはできません」といった単なる口先だけのものではありませんでした。そのことは彼の言葉や行動(涙や抱擁)を見ればわかるでしょう。ヨセフは、兄たちが罪責に苦しんできたことを知って、「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください」と、彼らを気遣う言葉をかけています。殺されそうになり、奴隷として売りとばされた側からやすやすと出てくるような言葉ではありません。また、ヨセフは泣きながら兄たちを抱きしめています。その振る舞いには偽りはなかったでしょう。

 次に、その赦しは「ヨセフの方から差し出されている」ということです。兄たちを試す中で、彼らが罪責感を抱えて生きていることを知りましたが、ヨセフの赦しは兄たちの謝罪を受けてからではありません。ヨセフの赦しを見るときに、主が語られた「放蕩息子」の父の姿が思い浮かびます(ルカ15:11-)。放蕩息子は悔い改めの思いをもって父のもとへ帰ろうとします。父は放蕩息子の姿を遠くから見つけて、走って行って赦し受けいれます。放蕩息子の謝罪を聞いてからではありません。

 最後に、その赦しは「自分が経験した苦しみを神の摂理という視点で見ている」ということです。ヨセフが経験したことは、人間の視点だけで見れば、彼は兄たちの憎しみによって奴隷にとして売られたということになるでしょう。しかし、ヨセフはその同じ事実を神の摂理という視点でみて、いのちを救うために「神が・・・先に遣わされ」たのです、と繰り返しています(5,6,8節)。兄たちの罪の行為を越えてもっと大きな神の御手を見ているのです。

 神は兄たちの悪をご自身の御手によって善のために用いておられます。そのようなことは、主イエスの十字架においても見ることができます(参  使徒2:23,4:28)。人間の視点で十字架を見るとき、そこにあるのはユダの裏切り、またユダヤ人たちのねたみや敵意です。しかし、その同じ十字架を神の摂理という視点で見るとき、神は人を救うためにご自身の御子を遣わされ犠牲にされたということがわかります。

神が摂理の御手をもって私たちに赦しの道を備えてくださったなら、私たちも赦しの一歩を踏み出すべきではないでしょうか(参 エペソ4:32)。


                   このメッセージは2022.2.20のものです。