二人の犯罪人 二人を隔てたもの ルカ23章32-43節

 ・・・そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた(ルカ23章33節)。

 十字架刑は、人を生きたまま釘付けにしてさらし者とし死に至らしめる、残酷で恐ろしい処刑法です。その恐ろしい十字架に「二人の犯罪人」が主イエスの両側にかけられたことを四つの福音書は記しています。この無名の二人の犯罪人について、マタイの福音書やマルコの福音書では「強盗」であったとしていますが、その他のことは何も分かっていません。ルカの福音書には、この二人の死の間際の言葉が記されています。その一人は、主から「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」との約束をいただいています。「いつかやがて」ではありません。「今日」という確約をいただいているのです。彼は死の間際でしたが、救いにあずかることができたのです。この二人の犯罪人を救いと滅びに隔てたものは何だったのでしょうか。

 まず、それは「行いではなかった」ということです(二人とも重罪人であった)。なぜ行いではないのでしょうか。すべての人は罪人であり、聖い神の前に立つことができる人はだれもいないからです(ローマ3:9-、詩篇130:3)。行いによって神の前に受け入れられようとするなら、完全でなければなりません(参 ヤコブ2:10)。人生における悪行と善行を天秤にかけて善行の方が多いなら「御国に入れる」と考える人々がいますが、そうではありません。どのような善行も神の前に十分ではなく、自分の行いによって御国に入れる者はいないのです。それは極刑を受けた犯罪人に限ったことではなく、すべての人がそうなのです。

 次に、それは「信仰であった」ということです。犯罪人の一人は、自分の罪を素直に認めただけでなく、救ってくださる方に信頼し、あわれみを求めています。主が話されたたとえ話の中で、パリサイ人と取税人が祈っています(ルカ18:9-)。パリサイ人は自分を正しいと自負し、取税人を見下している者です。一方、取税人は、自他ともに罪人であることを認めている者です。取税人は、神の前に出ることがふさわしくないと思いつつも、神のあわれみを求めて「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈っています。主は、義と認められた(神に受け入れた)のはパリサイ人ではなく、取税人の方であったと言われています。犯罪人の一人は、取税人と共通した信仰を持っていたことが分かります。神の前にへりくだり、あわれみを求める者はあわれみを受けることができるのです(詩篇51:17)。

 十字架上の主は、自分を救えと嘲けられましたが、自分を救おうとはされませんでした。自分を救うことができなかったからではありません。ご自身が父から遣わされた目的が、罪人たちの罪を負って死ぬためであったことを知っておられたからです(参 ヨハネ18:11)。ピリピ人への手紙には、キリストは「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(2:8)とあります。キリストは、私たちが負うべき罪の刑罰を十字架で負って死んでくださったのです(Ⅰコリント15:3、Ⅰペテロ2:24)。

 エペソ2章8,9節には「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。・・・神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とあります。差し出されている救いを信仰によって、ただ「ありがとうございます」と受け取ったのであれば、だれも誇ることはできません。救いは罪人に対してキリストを通して「神の賜物」として私たちひとりひとりに差し出されているのです。あなたはこの神の賜物を信仰によってすでに受け取られましたか。

                    このメッセージは2020.10.25のものです。