律法学者たちとやもめ マルコ12章35-44節
主イエスはこれまでの論争を「律法学者たち」(38-40節)に対する強い非難で締めくくっています。彼らの見せかけの信仰と「貧しいやもめ」(41-44節)の信仰はとても対照的であることがわかります。
主は律法学者たちの自己顕示欲や貪欲に焦点をあてて、彼らに警戒するように注意を促しています(38節)。彼らの自己顕示欲の強さを示す例としてあげられている一つ目は、「長い衣を着て歩き回ること」です。「長い衣」は、足まで届く長いマントのようなもので、彼らの宗教指導者としての地位を誇示するものです。二つ目は「広間であいさつされること」です。公の場で敬意に値する者として認められることを求めていたということです。三つ目は「会堂の上席」に座ることです。おそらく巻物の聖書が収められている箱の前で、会衆を見渡すことができる正面の席のことでしょう。四つ目は「宴会の上座」に座ることです。「上座」は社会的に地位の高い人が座る席です。五つ目は、「見栄を張って」(共同訳「みせかけ」)の「長い祈り」です。祈りの長さが批判されているのではなく、敬虔さを装う祈りが批判されているのです。彼らは神からではなく、人からの栄誉や賞賛を求めていたのです(参 ヨハネ5:44,12:43)。
彼らの貪欲さについては「やもめたちの家を食い尽くし」と批判されています。具体的にどのようなかたちでやもめたちを搾取したのかはわかりませんが、見せかけの「敬虔を利得の手段と」(Ⅰテモテ6:5)したことが批判されているのでしょう。律法学者たちのうちに見る姿は、神の前に真実に生きようとする本物の信仰ではなく、見せかけの信仰です。
主は律法学者たちへのさばきを宣言した後(40節)、今度は彼らに搾取されていた側の「やもめ」(社会的弱者を代表するような存在)の献金から弟子たちが模範とすべき信仰を見ています(43節「弟子たちを呼んで言われた」)。
主は宮の庭にあった「献金箱」の向かい側に座って、献金する人たちの様子を見ていました。主の目にとまったのは、大金を投げ入れていたお金持ちたちではなく、「レプタ銅貨」(パレスチナで流通していた最小の額の銅貨)「二枚を投げ入れた」「貧しいやもめ」でした。主は献げた額より献げた人に焦点を当てているようです。そして彼女は「だれよりも多く投げ入れました」と賞賛され、その理由を「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから」と説明されています。「生きる手立てのすべて」を共同訳では「生活費を全部」と訳しています。
金額だけを比較するなら彼女の献金はわずかなものであったでしょう。しかし、そこには神への信頼をもって惜しみなく献げる本物の信仰があったのです。神は私たちの献げものだけでなく献げる動機を正しく評価されるお方です(参 創世4:4-5、Ⅰサムエル16:7)。
今、私たちが所有しているものは神が与えてくださったものです。私たちは真の所有者ではなく、管理者であることをわきまえ、信仰によって神に喜ばれるささげものを献げていきましょう(参 Ⅰ歴代誌29:9,14、Ⅱコリント9:7)。救いをはじめとして今ある恵みが「キリストによって」もたらされていることを忘れないようにしましょう(参 Ⅱコリント8:9)。
このメッセージは2024.7.14のものです。