富める者と救い マルコ10章17-31節
主イエスのもとに一人の人がやって来て「永遠のいのちを受け継ぐためには何をしたらよいでしょうか」と尋ねました。彼については並行箇所のマタイからは「青年」(19:20)であり、ルカからは「指導者」(18:18)であったことがわかります。22節には「多くの財産を持っていた」とあります。
彼の主に対する言動から敬意と誠実な思いを読み取ることができるでしょう。また、主も彼に対して好感をもっていることがわかります(21節 直訳「愛した」。マルコにおいて主が愛したと言われている人物は彼だけ)。彼は裕福で前途有望な若きリーダーであったのです。
主は彼が「何をしたらよいでしょうか」(マタイ19:16「どんな良いことをすればよいのでしょうか」)と尋ねてきたので、「十戒」の後半の隣人愛についての戒めを取り上げています(出エジプト20:10-17)。それに対して青年は「私は少年のころから、それらすべてを守ってきました」と答えています。主はその答えを聞くと、彼に「あなたに欠けていることが一つあります」と言われて、彼が持っている資産をすべて売り払い貧しい人たちに施し、「そのうえで、わたしに従って来なさい」(21節)と彼を招かれました。
そもそも青年が尋ねた「永遠のいのち」(10:17,30)とは何でしょうか。今回の文脈から「神の国に入る」(23-25節)と「救われること」(26節)と同義であることがわかります。新約聖書全体からわかることは、「永遠のいのち」(参 エペソ4:18「神のいのち」)は、「滅び」と対極にあるものであり(ヨハネ3:16)、キリストを信じる者に約束されている「神の賜物」(参 ローマ6:23、ヨハネ3:15,36,Ⅰヨハネ5:13ほか)であるということです。救い(永遠のいのち)は、何か良い行いをすることによって得られるものではなく、信仰によって与えられるものなのです(エペソ2:8-9,使徒16:30-31)。主はこの青年に対して、すべての財産を処分して施しなさいと命じられました。今日、もし救いを得ようとする者に、あなたの財産を処分することも必要ですと語るなら、救いは信仰ではなく行いになってしまいます。
青年は、隣人愛について「少年のころから、それらすべてを守ってきました」と答えました。しかし、彼は本当に守って来たのでしょうか。隣人愛の究極の実践が主の命じられたことであったのです(マタイ19:21には「完全になりたいなら」との主の言葉がある)。隣人愛を完全に実践できる者はだれもいません。神は律法を完全に守れない私たちのために、行いによってではなく信仰による救いの道を備えてくださったのです。自らの行いによって救い(永遠のいのち)を獲得しようとするなら、誰でもこの青年のように、主のもとを悲しみながら去って行くしかないのです。
青年が主のもとを悲しみつつ去って行った後、弟子たちは主の言葉に二度驚いています(24-26節)。なぜなら、一般的なユダヤ人たちは、「富」を神の祝福のしるしと考えていたからです。主は、「富を持つ者は絶対に神の国に入れません」と、言われたわけではありません。「難しい」と言われたのです。なぜでしょうか。それは神ではなく富に信頼を置いてしまうからです。富は偽りの安心を与え、神に信頼することを妨げてしまい、偶像になってしまいやすいものなのです。青年はすべてを処分して施し、主に従ってくるように招かれたとき、お金が与えてくれる快適な生活や将来の安定を考えたとき、主に信頼を置くことができなかったのです。
このメッセージは2024.5.19のものです。