主イエスの死の意味 ヨハネ19章28-42節
イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった(ヨハネ19章30節)。
四つの福音書には主が十字架上で発せられた七つの言葉が記されています。ヨハネはそのうちの三つを記しています。一つは前回の「愛する弟子」に「母」を託した言葉です(26-27節)。後の二つはそれぞれ原語では一語と短い、「わたしは渇く」(28節)と「完了した」(30節)という言葉です。
主の「わたしは渇く」との言葉は、肉体の強い渇きの現実とともに父なる神を慕い求める苦悩をもあらわしているものと思われます(参 詩篇42:2)。人の渇きを満たすことのできるお方が(4:14, 7:37)、人々の罪を負って神から見捨てられ(マタイ27:46「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」)、神を慕い求めておられるのです。
三番目の主の「完了した」(共同訳「成し遂げられた」)との言葉は、口語訳では「すべてが終わった」と訳されていますが、新改訳や共同訳のように訳すなら、勝利の宣言の意味をもっと出すことができるでしょう。主はここに、父によってこの世に派遣された目的である「十字架の死」が成し遂げられたことを宣言しているのです。
バプテスマのヨハネは主を指して「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)と紹介しました。旧約時代からささげられてきた動物の犠牲は、人の罪を取り除くには不完全なものでした。なぜなら、それは繰り返しささげられなければならなかったからです(ヘブル10:1-)。しかし、主はご自身を「ただ一度」ささげられたことによって(参 ヘブル7:27,9:12,27,10:10)、罪の赦しの道を備えられたのです。
主の死の事実は、その死を確認するために突き刺された槍やアリマタヤのヨセフやニコデモによる埋葬からも分かります。キリストの死が作り話ではなく、本当に起こった出来事だと認めることは、信仰にとって大切なことには違いありませんが、単にその歴史的事実に同意するだけでは、その人を救いに導くものにはなりません。なぜならその事に関してだけなら多くの人が同意しているでしょうから。人の人生を変革し、罪の赦しの恵みをもたらす信仰は、主の十字架の死が今日の私たちとどのような関係にあるか、すなわち、その死の意味を心で受け入れるところまで至らなければならないのです。
おおざっぱな言い方をすることが許されるなら、新約聖書の福音書は私たちに主の死の事実の様を伝えています。そして、書簡(パウロなどの)は私たちにその死の意味と、その死の意味を心で受け入れる者に、どのようにして救いがもたらされるかを説明しています。キリストの死の意味は大いなる犠牲の模範ではありません。パウロがコリントのキリスト者たちに福音の内容として説明しているように「私たちの罪のため」(Ⅰコリント15:3)であったのです。
ヨハネは繰り返し主の死において預言が成就したことを私たちに注目させています(24,28,36,37節)。確かに主を十字架の死へと追いやったのはイスカリオテ・ユダやユダヤ人指導者、ローマ人たちに他なりません(参 マタイ26:24,ヨハネ19:11)。しかし、その死は人間の思惑や計画を越えて、神のご計画であり、神の御心であったのです(使徒2:23,3:18,4:28)。神のなさることは私たちの思いをはるかに超えています。
このメッセージは 2020.510 のものです。