金持ちとラザロ 立場を逆転させたもの ルカ16章19-31節
信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです(ローマ10章17節)。
多くの人は死と隣り合わせに生きていながら、死後について語ることを避けています。その理由の一つは、死後については、誰も自らの知識や体験に基づいて語ることができない領域で、“こうです”と確信をもって言えないからです。
主イエスは、金持ちとラザロのことを話されました(19-21節は生前、22-31節は死後)。ここから私たちは、知ることができない死後についての真理を読み取ることができます。登場する二人はとても対照的です。金持ちはその富をもって毎日を贅沢に遊び暮らしていました。一方で、その門前には見捨てられたかのように、悲惨の極みの中にいるラザロがいました。両者は共に亡くなり、死後において両者の立場は全く逆転してしまいました。金持ちは死後、「よみ」(ギリシャ語ハデス、ゲヘナに至る中間状態)にいて、意識をもって苦しみの中にあります(23,24,25,28節)。一方、ラザロは旧約聖書の信仰の父と呼ばれるアブラハムとともにいて慰めを得ています。
死後の立場が逆転してしまったのはなぜでしょうか。お金持ちが「ハデス」にいるのは、お金持ちだったからではありません。両者の立場を逆転させたものは信仰です。お金持ちが信仰を持っていなかったことは、彼の生き方そのものに現れています。聖書は貧しい者たちへの哀れみを強調し、ユダヤ人たちは施しをとても重要視していました。もし彼が信仰を持っていたなら門前のラザロに無関心ではいられなかったことでしょう。彼が信仰を持っていなかったことの決定的な証拠は、自分の兄弟たちも信仰をもっておらず(悔い改めておらず)、自分と同じような苦しみの場に来ることがないように、ラザロを遣わしてくれるように願っていることにみることができます。
あらためて主の話された「金持ちとラザロ」から分かる事は何でしょうか。第一に、死後の行き先を決定するのは信仰であるということです。十字架に架けられた犯罪人の一人が、主からパラダイスへの約束を頂いたのは、その信仰によることは、先週見たとおりです。どんな地位や肩書きや善行もパラダイスに入るには有効ではありません。
第二に、死後の状態(領域)を変更することはできないということです。仏教の「供養」という考えは、生きている人が死者のためにできることがあることを前提にしています。しかし、主がアブラハムに語らせているように、死後の状態(領域)を途中から変えることはできません(26節)。未信者の死後の現実を厳粛に受け止めるなら、福音を伝える教会の使命の重大性に向き合わされます。
最後に、確かな信仰へと導くものはみことば(聖書)であるということです(参 ローマ10:17)。金持ちは苦しみの緩和を断られた後(24節-)、自分の五人の兄弟までもが、このような苦しみの場所に来ないようにとラザロを遣わしてくれるように願っています。それに対して主はアブラハムを通して「モーセと預言者」(旧約聖書)に聞くようにと言い、それに聞かないなら、「たとえ、だれかが死人の中から生き返っても」悔い改めはしない、と語らせています。インパクトのある奇跡を目の当たりにすれば誰でも信じるのではないか、悔い改めるのではないか、と思いがちです。しかし、現実はそうではありません。ユダヤ人たちは数多くの奇跡を見聞きしながら主に対して心を閉ざし、頑なに悔い改めるのを拒んだのです。
神はご自身の御心をみことばを通して明らかにしてくださっています。そして、そのことばに聞くようにと求めておられるのです。
このメッセージは2020.11.1のものです。
「聖書の男たち」シリーズのさらに詳しい説教要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『神の御手の中で』(127回分の説教、B5版 249頁)の中におさめられています。アダムからオネシモまで、90名以上の男たちをとりあげています。