ミカ 身勝手な信仰 士師記17章

 士師記には、「イスラエルの子ら」が「主の目に悪であることを行った」(7回)と繰り返されています。また、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(2回)とも繰り返されています。「主の目に悪であること」と「それぞれが自分の目に良いと見えること」の、その実態はどのようなものでしょうか。一般市民はどのような宗教生活を送っていたのでしょうか。その様子を知ることができるのが17章です。ここには、エフライムの山地に住む裕福なミカの家族とその家にたどり着いた一人のレビ人が登場します。そこには主の御心を見失い、自分の都合を優先する身勝手な信仰を見ることができます。

 主人公であるミカは母から銀千百枚という大金を盗むような人物です。彼は母が呪ったことを聞いて、恐れたのでしょう、母に自分が盗んだことを告白しています。それを聞いた母は、すぐに呪いを撤回し、息子の祝福を主に祈っています。母は盗まれた銀は主に献げていたもので、それで息子のために「彫像」と「鋳像」を造ろうとしていたと告白し、銀二百枚を銀細工人に渡して偶像を造らせています。

 身勝手な信仰の第一は、主の御名を用いながら、主が忌み嫌うべき偶像を造っていることです(参 18:24,31)。それは主に呪われるべき行為です(申命27:15)。十戒には「偶像を造ってはならない。・・・いかなる形も造ってはならない」(出エジプト20:4)とあります。神は霊であり、形にできないお方です。形にできないお方を形にするなら、どうしても正しい神観をゆがめてしまいます。ある人は、形あるもの(偶像)を礼拝しているのではなく、その背後におられる主を礼拝していると弁解をするかもしれません。しかし、そのような手段を通して礼拝することも主は拒絶されていることを理解する必要があります(参 出エジプト32:4-)。

 身勝手な信仰の第二は、「神の宮」を持っていたことです。当時、「神の宮は」、エフライム族の相続地のシロにありました(士師記18:31)。エフライムのラマタイムに住むエルカナとハンナは、毎年シロに上り主を礼拝していました。それは定められた場所で礼拝することが命じられていたからです(申命記12:4)。

 身勝手な信仰の第三は、「エポデとテラフィム」を造っていたことです。「エポデ」は祭司の装束の一部として出てきます。士師記においては、ギデオンがそれを造り、トラブルの原因となっています(8:27)。「テラフィム」は、ミカの家の守護神で偶像です(参 創世記31:19)。

 身勝手な信仰の第四は、息子のひとりを「祭司」にしていたことです。「祭司」の資格は、アロンの子孫に限定されていました(民数3:10)。後にミカは、レビ人を祭司に迎えています。それは全く祭司の資格のない息子を勝手に祭司にしていたことの問題性を認識していたからです。

 主イエスは、サマリアの女性との会話の中で、「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と言われました。ミカは、主が礼拝について命じていることば(真理)を無視しながら「主が私を幸せにしてくださる」(17:13)と期待しています。それは身勝手ではないでしょうか。それぞれが自分の目に良いと見える、という基準に従うなら、信仰(礼拝)は身勝手なものになってしまいます。今日の私たちも礼拝を自分の都合に合わせようとしていないでしょうか。


               このメッセージは2022.10.2のものです。