誰が主を引き渡しのか?
イースターを前にして、主イエスの十字架の死の責任は誰にあるのか、ということを考えてみたいと思います。
主が十字架の死へと追いやられていく中で、繰り返されている一つのキーワードがあります。ギリシア語で「パラディドーミ」という語で、新改訳2017では「引き渡す」「渡す」「裏切る」などと訳されています。主はやがてご自身が引き渡されることを予告しておられましたが(マルコ9:31, 10:33)、それは誰によって実現したのか、また、その動機についても簡単に触れたいと思います。では誰が主を引き渡しのでしょうか。
まず、それはユダです(マルコ14:10,11)。ユダは十二使徒の一人でしたが、主を祭司長たちに銀貨三十枚と引き換えに裏切りました(マタイ26:15,16)。なぜ主を裏切ったのでしょうか。動機は明示されていませんが、ある人たちは二つの動機を推測しています。一つは政治的なもので、主に従って行くなかで、自分の期待していたメシア(ローマの植民地支配からの解放者)ではないことがわかったからというものです。もう一つは道徳的なもので、使徒たちの金入れを預かりながら、そこから盗みをしていて(ヨハネ13:6)、彼のお金に対する貪欲さからではないかとするものです。
次に、それは祭司長(宗教指導者)たちです(マルコ15:1)。主の公生涯が進むにつれて、宗教指導者たちと主との対立は段々と深くなり、彼らは殺意を抱くようになっていきます。自分たちが考える安息日律法を破り、ご自身を神に等しいとするその言動は赦せない神への冒瀆でした。しかし、祭司長から主の身柄を引き渡されたピラトは彼らの動機をしっかりと見抜いていました。それは「ねたみ」でした(マルコ15:10)。主に対する民衆の支持が増大していくにしたがって、指導者たちは自分たちの権威や権益が失われることを恐れたのです。
次に、それは総督ピラトです(マルコ15:15)。ピラトは主への尋問によってユダヤ人たちが訴えるような罪がないことを確信しました。それで何度か主の釈放を試みようとしましたが、宗教指導者たちの要求に屈服せざるをえず、主を十字架刑に処するために兵士たちに引き渡しました。なぜでしょうか。それは自己保身です。
次に、それは父なる神です(ローマ8:32)。これまでは人間の側の視点から誰が主を引き渡したのかをみてきましたが、神のご計画という視点からみるならば、それは父なる神です。ペテロはユダヤ人たちに対して、あなたがたが主を十字架にかけたのだと断罪する一方で、それが神のご計画であったことも明らかにしています(使徒3:13-18、4:27,28)。ではなぜ、神はご自身の愛する御子を引き渡されたのでしょうか。私たちへの愛のためです。
最後に、それは主イエスご自身です(ガラテヤ2:20)。主はユダの手引きをはじめとして、ご自身を死へと追いやろうとする人々の邪悪な計略を阻止することができましたが、そうはされませんでした。もしそうするならば、ご自身の遣わされた目的を果たすことができなくなってしまいます。主は私たちを愛するゆえに自らを引き渡されたのです。
主の十字架から、主をその死へと追いやった人々の貪欲、ねたみ、自己保身といった醜い罪の現実をみます。それはまた私たちの現実ではないでしょうか。神は罪人を愛する故に、救いのご計画を立てられ御子を遣わし、御子は死に至るまで忠実に父に従われ、救いの御業を成し遂げられたのです。
改めて問いかけてみましょう。主を十字架の死に追いやった責任は誰にあるのでしょうか。そこには「私やあなた」も含まれるのではないでしょうか。そのことを認めて、主の御業に信頼する者はだれでも罪の赦しという恵みを自分のものとすることができるのです。これこそ「福音」(グッドニュース)と言わなくて何でしょうか。
このメッセージは2021.3.28のものです。