エノク 神とともに歩む 創世記5章21-24節

 「父の日」ということで、一人の男性を取り上げたいと思います。その男性とは、「エノク」です。創世記5章には、アダムからノアに至る系図が記されていますが、その中にあって「エノク」の存在は際立っています。

 5章の系図を読むと、1つのパターンが繰り返されていることに気づかれると思います。その1つのパターンとは、「○○は~年生きて、○△を生んだ。○○は○△を生んでから・・・年生き、息子たち、娘たちを生んだ。○○の全生涯は~+・・・年であった。こうして○○は死んだ」という表現です。

 しかし、アダムから7人目に登場するエノクにおいては「神とともに歩んだ」(22,24節 参 6:9)ことが繰り返され、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」となっています。

 創世記3章にはアダムが罪を犯して堕落し、その罪の結果もたらされた死は、すべての人を支配するものとなったとあります(ローマ5:12)。そして、5章の系図において、死が支配する中にあってエノクは例外的な存在として登場しています(エノクの存在は、キリストを信じる者の復活の希望[死に対する勝利]を予表するものであると言っていいかもしれません 参 Ⅰコリント15:54-、Ⅰテサロニケ4:16-)。ヘブル人への手紙11章の「信仰の人」のリストにエノクは登場し、「信仰によって、エノクは、死を見ることがないように移されました。・・・彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていた」(11:5)とあります。神が喜ばれる信仰をもって、神とともに歩むとはどういうことなのでしょうか。

 「神とともに歩む」ことを理解するために、それに近い表現と比較してみましょう。その一つは「神の前に歩む」(参 創世記17:1,24:40)です。これは神がアブラハムに命じられたことであり、アブラハムが自分の歩みを説明するために使っています。もう一つは「主に従って歩む」(参 申命13:4)です。モーセがイスラエルの民に命じたものです。「神の前に歩む」、確かに私たちが、神を念頭に置いて人生を歩むことは大切なことでしょう。また「主に従って歩む」、主に従順であることも大切なことでしょう。しかし、「神とともに歩む」には、先の二つを含みつつ、さらに神との親密な交わり、関係性を表現しているように思われます。

 では、神とともに歩むためには何が必要でしょうか。まず、神と和解することです。生まれながらの人間は神との敵対関係にあり、その御怒りの対象です(参 ローマ5:10,Ⅱコリント5:18)。人が神と共に歩むためには、キリストを通して差し出されている神の赦しを受け入れ、神の子どもの一人になることが必要です。それによってスタートラインに立つことができるのです。もしあなたがすでにクリスチャンであるなら、罪をそのままにして神とともに歩むことはできないでしょう。悔い改めをとおして、神とともに歩むための正しいコースに立ち戻る必要があります(Ⅰヨハネ1:9)。

 次に、ともに歩もうとしている相手をよく知ることが必要です。人との関係においても、誰かとともに歩むもうとするなら、相手をよく知ることは重要でしょう。神は今日、聖書をとおしてご自身がどのようなお方であるか、どのようなことを私たちに望んでおられるかを明らかにしています(ミカ6:8,Ⅰテサロニケ5:16-)。神を知るということは知識で終わるものではありません。生活を通して知るという体験的なものです。知識として得た真理を生活に適用させていくためには、神への信頼と御霊の助けが必要です。


                このメッセージは2022.6.19(父の日)のものです。