第一の戒め マルコ12章18-34節
悪意を抱く者たちとの論争において主イエスが見事に論破されたのを聞いていた「律法学者の一人」が、主に「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と尋ねました(律法学者たちは、613の戒めを特定して、そのうち365が否定的な戒め、残りの248が肯定的な戒めであった 参 Brooks,p.197)。今回、登場する律法学者と主との間には、相互に好意が感じられます。
主は律法学者の質問に答えて、申命記6章4,5節を引用して、神を愛することが「第一の戒め」であると答えました。「心」「いのち」「知性」「力」のそれぞれを尽くしてとは、全身全霊をもってということです。主は、「第一の戒め」だけではなく、「第二の戒め」もあげて、第一の戒めと結びつけています。引用しているのはレビ記19章18節です。その文脈における「隣人」とは同胞のユダヤ人ですが、レビ記19章33節では寄留している外国人にまでそれが広げられ、新約聖書においては、その範囲はさらに「敵」(参 マタイ5:44,ルカ10:30-)にまで広げられていることがわかります。
主が神への愛と隣人への愛を結びつけたのは、神への愛が具体的に隣人愛によってあらわされることを意図したものでしょう(参 ローマ13:10,ガラテヤ5:14,ヤコブ2:8)。ヨハネの手紙第一4章20節には「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」とあります。ヨハネは神への愛と隣人への愛を結びつけていることがわかります。
隣人愛の実践は、人間的な力によってできるものではありません。自分の力に頼ろうとするならすぐに行き詰まってしまうでしょう。まず、いかに神が愛してくださったかを受け止め(参 Ⅰヨハネ4:11,19)、私たちのうちにおられる御霊によってそれが可能であることを覚える必要があります(参 ガラテヤ5:16-)。
主の答えを聞いた律法学者は主の言葉に同意し(「そのとおりです」と繰り返している)、神への愛と隣人への愛が「どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています」(33節)と付け加えています(参 Ⅰサムエル15:22,詩篇51:16-17,イザヤ1:11,エレミヤ7:22-23,ホセア6:6) 。
主は律法学者の言葉を聞いて「あなたは神の国から遠くない」(34節)と言われました。彼が主の「神の国」への招きに応答したかは明らかにされていません。信仰は、単に知的な同意に終わるものではありません。主に対する信頼が求められているのです。主に対する信頼の一歩を踏み出しましょう。
[18-27節の「復活」をめぐるサドカイ人との論争については説教集をみてください]
このメッセージは2024.6.30のものです。