唯一の誇り キリストの十字架 ガラテヤ6章11-18節


 パウロは、3章1節で「愚かなガラテヤ人」と呼びかけ、「十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」と問いかけていました。「だれが」(5:7)とは、もちろん教会を惑わしていた偽教師たちのことです(1:7,4:17,5:10,12)。パウロはこの手紙の結びの部分でも、改めて彼らの問題を取り上げています。

 偽教師たちは、救いのためにはキリストを信じる信仰だけではなく、律法を守ること、特に「割礼」が必要であることを強調していました。パウロは彼らのことを「肉において外見を良くしたい者たち」と呼んで、「あなたがたに割礼を強い」(12節)、「あなたがたに割礼を受けさせ」(13節)ようとしているのは、どのような動機からかを明らかにしています。

 偽教師たちはユダヤ人であり、その肉体に「契約のしるし」(創世記17:11)である「割礼」を受けていることに、神の民としての誇りを持っていました。彼らが異邦人クリスチャンたちにも割礼を受けさせようとしていたのは、同胞のユダヤ人からの迫害を避けるためであったことをパウロは指摘しています(12節)。なぜ、「キリストの十字架」を宣べ伝えることが迫害されることになるのでしょうか。「キリストの十字架」は、異邦人にだけではなくユダヤ人に対しても、救われるためには人は全く無力であり、どのような行い(割礼)も必要がないことを示し、キリストが成し遂げてくださった救いの御業にのみ信頼することを要求するからです(救いの唯一の根拠が「キリストの十字架」にあることを示す)。そこには人間の誇りが入りこむ余地が全くありません。律法を所有していることに誇りをもちその律法が命じている割礼を神の民のしるしとしているユダヤ人に割礼が不要であることを主張するなら、彼らの誇りを傷つけ怒りを買うことになるからです(参 5:11)。偽教師たちはそれを恐れたのです。

 偽教師たちのもうひとつの動機は「あなたがたの肉を誇るために」(13節)ということばからわかります。同胞のユダヤ人に対して、自分たちの説得によって異邦人が割礼を受けて自分たちの仲間になったということを誇りたいためだということです。パウロは偽教師たちの動機が神に対するものではなく、利己的なものであることをここで示しているのです。

 偽教師たちにとって誇りは割礼であり、律法であったでしょう。しかし、パウロは、自分とっての唯一の誇りは、「キリストの十字架」であって、それ以外にあってはならないと断言しています。なぜなら、「キリストの十字架」は神が備えられた唯一の救いの道だからです(参 ヨハネ14:6)。「キリストの十字架」は、信じる者の恵みによる救いを象徴するものであり、罪人に対する豊かな神の愛を示しているのです。

 「律法」は、私たちに「~しなさい」と命じます。しかし、残念ながら私たちはそれらの要求に答えることはできません。一方「福音」は、「神がすべてをなしてくださいました。あなたのなすべきことは何もありません。ただ神のなしてくださった御業(キリストの十字架)に信頼しなさい(信じなさい)」と招きます。信じるだけで、義と認められ(2:16)、神の子どもとなり(3:26)、聖霊を受けるとするなら(3:2,5)、「キリストの十字架」以外のどこに誇るべきものがあるでしょうか。


 このメッセージは2023.2.19のものです。なお、ガラテヤ人への手紙(計16回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『福音と信仰と自由』(B5版、43頁)にまとめられています。



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