感謝ととりなし ピリピ1章1-11節

 手紙の冒頭は、三つに分けることができます。1-2節は挨拶、3-8節は感謝、9-11節はとりなしです。 

 – 挨拶の説明は省略 –

 3-8節のパウロのことばを読むときに、ピリピ教会に対するパウロの強い愛情が読みとれます(特に8節)。パウロは、定期的にピリピ教会のことを思い、喜びをもって祈ることができました。両者の間には、良好な交わりがあったからです。

 パウロは、ピリピ教会との間にある「交わり(コイノーニア)」を感謝しています(5節の直訳「福音への交わりを」)。「交わり」というと、クリスチャンたちが集まっておしゃべりするぐらいの程度に考える人もいるかもしれませんが、パウロはピリピ教会が「最初の日から今日」まで、自分の福音宣教のために犠牲を払って支援してくれたこと、つまり継続的に宣教のパートナーとなってくれていることを感謝しているのです(参 4:15-18)。そして、「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(6節)と述べています。「良い働きを始められた方」とは神を、そして「キリスト・イエスの日」とは再臨を指します。では「良い働き」とは何でしょうか。ピリピ教会の宣教支援を指すと考える人もいるでしょうが、後半をキリストの再臨(終末)における完成(救いの)とするなら、「良い働き」は「救い」と理解していいでしょう。なぜなら、「良い働き」は救いを証しするものだからです。福音の恵みにあずかったピリピの人たちは、パウロを支援することを通して、他の人たちが福音の恵みにあずかってほしいと願ったのです。そのような彼らに対して、神が救いの完成(栄化)へと導いてくださることをパウロは確信しているのです。

 9-11節では、パウロがどのようなとりなしの祈りをしているかが分かります。まず、パウロはピリピ教会の愛が「いよいよ豊かにな」ることを願っています。その際、「知識とあらゆる識別力(共同訳:「洞察」)によって」と述べています。本当の愛は盲目的なものではありません。対象に対する正しい理解と洞察がなければ正しい方向性を失ってしまいます。

 パウロが彼らの愛が豊かになるように祈る目的は、「大切なことを見分けることができ」るようになるためでです。「大切なこと」(共同訳「本当に重要なこと」)を見分けることができるようになるのは、愛によってであるとパウロが理解していることが分かります。私たちが人生において何を「大切なこと」としているかは、普段の生活において何に多くの時間やお金を費やしているかに反映されるのではないでしょうか。神や隣人への愛が豊かになるなら、私たちの優先順位もきっと変わってくることでしょう。

 パウロは、大切なことを見分けることの結果として、「純真で非難されるところのない者とな」ることをあげています。「純真」と「非難されるところがない」という二つの形容詞を組み合わせて、内なる性質(動機・姿勢)と外に表われる行動が、再臨の日に備えて、ますますキリストに似た者へと成長していくことを願っているのです。そして、「純真で非難されることのない者」という状態をさらに説明するのが「義の実に満たされ」た姿です。「義の実」(参 ヤコブ3:18)とは、正しい行動や品性を指しているのでしょう。そして、パウロのとりなしの祈りの最終的な目的は、「神の栄光と誉れが現」れることであることがわかります。

             このメッセージは2025.8.24のものです。