パウロの祈り コロサイ1章9-14節
今回のパウロの祈りの箇所について、オブライエンは「パウロの手紙の中でも最も優れたものの一つ」であると述べています。パウロは何を祈っているのでしょうか。
9節の「こういうわけですから」は、祈りの理由を説明しています。それは3-8節の感謝の思いが祈りに繋がっているということです。パウロはまだ会ったこともないコロサイのクリスチャンたちのために「絶えず」祈っています。コロサイのクリスチャンたちにとって、自分たちがパウロの祈りのリストに入っていると知ることは励ましになったことでしょう。
さて、パウロは何を祈っているのでしょうか。「知識に満たされ」ることです(9節)。私たちが社会生活を送る上で、さまざまな知識(スマホ、車、健康など)は役に立ちとても有益です。しかし、パウロが求めているのは「神のみこころについての知識」です。神のみこころについては、神の救いの遠大なご計画に関するものや、私たちのクリスチャン生活に関するものがあります(ガラテヤ5:16,Ⅰテサロニケ4:3,5:16-18など)。
パウロが知識に満たされることを求めるのは、知識を豊かに持つことが目的ではありません。生き方がそれによって変わることです。もし、知識が生活に何の変化も与えないなら、高慢になってしまうでしょう。
パウロが知識を求める目的は「主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ」るためです(10節)。「主にふさわしく歩」むとは、主に倣う生き方をするという意味です。「あらゆる点で主に喜ばれ」るとは、主に倣う生き方をさらに説明するものか、その目的や結果のことでしょう。
パウロは10-12節において「主に喜ばれ」る生き方の特徴を四つあげています。まず一つ目は、「実を結ぶ」ということです。かつては神に背を向け、「悪い行い」(1:21)という実を結んでいたところから、「あらゆる良いわざのうちに実を結ぶ」(10節)者となるということです(参 エペソ2:10,ガラテヤ5:22-23)。誤解してはならないことは、「良いわざ」によって救われるのではなく(エペソ2:8)、正しく福音に応答した結果、良い実を結ぶ者となるということです。
二つ目は、神理解が深められることです。人間同士の関係においても、知るということが深められる過程があります。相手と時間を過ごし交わることによって、より相手を深く知ることができます。神理解が深められるなら、神のみことばの理解とともに、神のみこころをさらに知ることができるようになるでしょう。
三つ目は、「強められる」ことです。自分で自分を強めるのではなく、神によって「強められる」ということです(参 エペソ6:10)。強められる目的、すなわち強められるなら何が可能となるのでしょうか。さまざまな人生の試練の中にあっても「忍耐」や「寛容」を持つことができるようになるということです(参 Ⅱコリント6:5-6)。
四つ目は「喜びをもって感謝をささげる」ことです(12節)。3節ではパウロは「父なる神」に感謝をささげていました。ここでは、コロサイのクリスチャンたちが感謝をささげることを願っています。
パウロが祈り求めている「主に喜ばれ」る生き方は、とても高い基準です。とても達成できるようなものではないと思うかもしれません。確かに自分の力では無理です。神の力が私たちのうちに働くことがないなら、誰も神に喜ばれる生き方をすることができないのです。
このメッセージは2025.1.26のものです。