祈りの力と赦し マルコ11章22-33節

 

 主イエスは受難週を、日中は宮で人々に教え(参 11:17,14:49,ルカ19:47)、夜は郊外に退かれるというパターンで生活を送っておられたようです。危険を避けるためか、また最後の日に備えて祈るためか、親しい人々と過ごすためであったかもしれません。

 マルコはいちじくの木が枯れたことをペテロが報告した後、主が信仰、祈りの力、赦しについて教えられたことを記しています(22-25節)。一見、前の出来事とは関連がないような内容ですが、奇跡を目の当たりにしたペテロたちの驚きに際して、このような驚くべき力がどこにあるのか、ということを教えられたのでしょう(参 マタイ21:20-22)。

 主は信仰によってもたらされる驚くべきわざについて、誇張した表現を用いて説明しておられます(23節 同様の表現が、異なる文脈で用いられている マタイ17:20,ルカ17:6)。通常、山が海に入ることはありません。「山が動く」(参 Ⅰコリント13:2)という表現は、ラビたちが、一見不可能に見える困難を克服することを表現するために使った言葉のようです。神のみわざを期待しようとするなら信仰が必要であることは(参 ヤコブ1:6,ヘブル11:6)、9章に登場した父親の例からも見ることができるでしょう(9:23)。また、主がベタニアのマルタに対して「信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)と言われた言葉が思い出されます。

 信仰を具体的にあらわすものが祈りです。主は「あなたがたが祈り求めるものは何でも、・・・そのとおりになります」(24節)と約束されています。利己的な願望でも疑わずに固く信じ続けるなら、その通りになるという意味の約束なのでしょうか。「何でも」と約束されている他の箇所を見るときに(参 ヨハネ14:13-14,15:7,16:23)、そういう意味ではないことがわかります。なぜなら、祈りは私たちの願望を何でもかなえる魔法の杖のようなものではないからです。主はゲツセマネの祈りの中で「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(14:36)と祈られました。その祈りからもわかるように、祈りは神の御心を自分の強い信念によって屈服させて思い通りにすることではなく、自分の弱さを認めて神に信頼し、神の御心にそって求めることなのです。神の約束に基づいているなら、「すでに得たと信じ」(24節)て祈り続けることもできるのではないでしょうか(参 Ⅰヨハネ5:14)。

 祈りにおける大切な第一のことが信仰とするなら、次は赦しの心をもって祈るということでしょう。主は祈るときに「だれかに対して恨んでいることがあるなら、赦しなさい」と命じ、天の父なる神も赦してくださることを約束しています(25節)。同じような内容が山上の説教にも出てきます(マタイ6:14,15)。そこでは一見、私たちが神の赦しを得る根拠が、私たちが誰かを赦すかにかかっているかのように読めるかもしれませんが、主は罪赦された神の子どもたちが誰かを赦すように勧め、神の赦しを約束しているのです。言い換えるなら、赦されることと赦すことを切離さないようにということなのです。神から罪という莫大な負債(一万タラント)を赦されたにも関わらず、同僚のわずかな負債(百デナリ:一万タラントの六十万分の一)を赦さなかった家来のたとえ話を主は語られました(マタイ18:23-35)。赦すということは、恵みの賜物として神から受けたものを相手に差し出し(参 エペソ4:32)、後は神の御手に委ねることなのです。

 [27-33節の主の権威をめぐる論争については説教集を見てください]


             このメッセージは2024.6.9のものです。