祈りと証し コロサイ4章2-6節
パウロはこれまで、家庭内におけるクリスチャンとしての生き方について語ってきました(3:18-4:1)。それらは内向きの教えでしたが、今回の箇所では視点を外に向け、「宣教」に関する勧めがなされています。特に、祈り(2-4節)と証し(5-6節)に焦点を当て、クリスチャンが世に対してどのように関わるべきかが示されています。
まずパウロは、コロサイのクリスチャンたちに「たゆみなく祈りなさい」(2節 直訳「祈りに専念しなさい」)と勧めています。「祈り(プロセウケー)」という名詞は、祈りを表わす最も一般的な表現で、新約聖書で頻繁に用いられています。一方、動詞の「専念する(プロスカルテレオー)」は、「熱心に取り組む」という意味です。
祈りはクリスチャン生活の「呼吸」にたとえられます。祈りが失われるとき、霊的には最も無防備な状態であることを、クリスチャンは自覚する必要があります。
パウロはさらに、どのように祈るかについて、「感謝」と「目を覚ましていること」を挙げています。「感謝」は、コロサイ人への手紙において重要なテーマの一つで、クリスチャン生活を特徴づけるものです。神がキリストを通して、救いをはじめとしてさまざまな恵みを与えてくださっていることを、いつも忘れないようにしたいものです。次の「目を覚ましていなさい」という勧めは、ゲツセマネの園で主イエスが弟子たちに語られた言葉(マタイ26:38,マルコ14:34)を思い起こさせる表現であり、「油断せずに注意を払う」「警戒している」という意味です。
パウロは、祈りを勧めた後、その祈りのうちに自分たちのためのとりなしを加えてほしいと要請しています(3-4節)。注目すべきは、パウロが求めているのは、牢獄から解放されることではなく、キリストの奥義を語るために機会(「門」)が開かれることであるということです(参 2:2)。パウロは、獄中にあっても、神から委ねられた務め(1:25)を果たしたいと願っているのです。
続く5-6節では、クリスチャンでない人々に対してどのようにふるまうべきかが、「証し」という視点から語られています。まず「知恵をもって行動しなさい」(直訳「知恵のうちに歩みなさい」)と勧めています。「知恵をもって」とは、新しくされた人としての価値観や目的をもってという意味でしょう。「機会(カイロス)を十分に活かして」とは、「福音を語るチャンスを逃さず最大限に活かすこと」を意味しています。
最後の6節では、証しの手段としての「ことば」に焦点が当てられています。「あなたがたのことば」には、日常の会話(そこには「福音の証し」も含まれる)が、「親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」と勧められています。「親切」と訳されているのは、「恵み(カリス)」という言葉ですが、思いやりのあることばという意味で、「親切」と訳されているのでしょう。「塩味の効いた」(直訳「塩で味付けされた」)とは、相手の心を開かせるような魅力的なことばという意味でしょう。「一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります」とは、だれに対しても同じように語るのではなく、相手の立場や状況に応じて適切な応答をするということです(参 Ⅰペテロ3:15)。証しは簡単ではなく、勇気も必要です。しかし、霊的な備えをもって日々を歩むとき、聖霊が私たちにふさわしい機会と言葉を与えてくださるのです。
このメッセージは2025.4.13のものです。