笑いととりなし 創世記18章1-33節

  

 アブラハムのもとに三人の来訪者が訪れました。三人のうち一人は主ご自身で、二人は主の御使いだったと思われます(参 22節、19:1)。彼らの来訪の目的は何だったのでしょうか。

 一つは、「来年の今ごろ」サラに男の子が生まれることを知らせるためです。本来なら嬉しい知らせですが、神の約束を信仰をもって受け止められない妻サラの姿があります。もう一つは、ソドムとゴモラをその罪のために滅ぼそうとしていることを知らせるためです。その悪い知らせを聞いたアブラハムは神の前にとりなしをしています。

 来訪者たちは、「妻サラ」がどこにいるかとアブラハムに尋ねました。アブラハムが「天幕の中に」いることを伝えると、「そのうちの一人」(主ご自身 13節)が、すでにアブラハムに伝えていた内容をサラにも聞こえるように改めて伝えました(10節、参 17:21)。それを聞いたサラは心の中で笑ってしまいました。不信仰の笑いです。あまりにも自分も夫も年寄りになってしまっていたからです。

 主はサラの心の内を正確に見抜いておられ、アブラハムに対してサラを叱責することばを語りました。そして、改めて主に不可能なことはなく(参 ルカ1:37)、約束のとおりにサラに男の子が誕生することを強調しました。

 17章ではアブラハムの不信仰が、18章ではサラの不信仰が取り扱われ、夫婦は信仰によって神の約束を待ち望むように導かれていることがわかります。ベタニアのマルタに対して主は「信じるなら神の栄光を見る」(ヨハネ11:40)と言われました。アブラハムもサラも、たとえ人間的には不可能な状況の中にあっても神の約束を見るには、神に信頼しなければならなかったのです。

 アブラハムは来訪者たちをソドムを見下ろすことができるところまで見送り、その後、主の前にとりなしをしています。アブラハムのとりなしの根拠の一つは神の正しさです。「もしかすると、その町の中に正しい者が五十人いるかもしれません」(24節)と言って、正しい者と悪い者を一緒に滅ぼすようなことは神の公正さに反するのではないですか、と訴えています。もう一つの根拠は神のあわれみです。アブラハムは正しい者が五十人いるなら五十人は救って、残りの悪い者たちを滅ぼしてくださいと訴えているのではありません。そこに五十人がいるなら町を滅ぼさないで赦してださい、と憐れみを求めているのです。アブラハムは五十人から初めて、四十五人、四十人、三十人、二十人、十人と、人数を減らしていきます。アブラハムはその都度、神から「滅ぼさない」との約束を引き出しています。一見、アブラハムの粘り強いとりなしが主の譲歩を引き出しているように見えるかもしれません。しかし、正確には神のあわれみがアブラハムの大胆な祈りを招き寄せていると言っていいのではないでしょうか。

 ソドムとゴモラに対するさばきは、後の神のさばきの前兆でもあります(参 Ⅱペテロ2:6,Ⅱテサロニケ1:8-9)。神がすべての人が救われることを願っておられることを(Ⅰテモテ2:4)、また神に背を向けて歩んでいる人々が神によって裁かれる定めにあることを知りながら、私たちがとりなすことをしないで生活をしているなら、利己的になっていることを認めて悔い改める必要があるのではないでしょうか。


             このメッセージは2024.11.10のものです。