失望しないで祈り続ける ルカ18章1-18節

 主は私たちが失望して祈れなくなってしまうことを知っておられ、この「不正な裁判官のたとえ」(ルカ18:1-8)と呼ばれている話をされました。

 さて、私たちが失望して祈れなくなってしまう原因は何でしょうか。まず、誤った期待や忍耐力の欠如ではないでしょうか。自分の願ったことが次から次へと叶えられるなら、祈ることは少しも苦痛とはならないでしょう。しかし現実は、祈ってもなかなか自分の期待通りにならないと、すぐに失望して、結局は神の御心がなるのだから祈っても祈らなくても同じではないか、とあきらめてしまうのではないでしょうか。

 次に神さまをよく知らないという現実があるのではないでしょうか。祈りは会話です。親しい良好な関係にある人との会話は、辛くおっくうなものではありません。自然にいろいろな会話へと発展します。私たちが祈れないのは、私たちと神さまとの関係を反映しているといえるのではないでしょうか。

 主が語られたたとえに登場するのは「裁判官」と「やもめ」です。「裁判官」について主は彼を「不正な裁判官」(6節)と呼び、彼自身に「私は神を恐れず、人を人とも思わない」(4節)と語らせています。彼は自分の職務を法にのっとって忠実に果たそうと思ってはいません。全く利己的で裁判官としては不適格な人物です。一方、「やもめ」は社会的に最も弱い立場の人物です。彼女にはお金も地位もありません。彼女の訴えを支援してくれる者もありません。彼女の訴えはいつも門前払いです。普通ならあきらめて泣き寝入りするしかないような状況です。しかし、彼女はあきらめませんでした。そして、ついに彼女は訴えを聞いてもらうことに成功しました。裁判官がやもめを不憫に思ったからではありません。また彼が自分がいかに職務に対して不忠実であったかを改心したからでもありません。彼女がもし裁判官の良心に訴えていたなら、取り上げてもらうチャンスはなかったでしょう。彼が重い腰を上げたのは、もうこれ以上彼女にわずらわされたくないという全く利己的な思いからです。

 時として、この「やもめ」のように根気強く熱心に祈るならば、こたえが期待できるのです、といった教えを導き出そうとする人がいます。根気強く熱心に祈ることは大切ですし(参 使徒12:5、ローマ15:30)、奨励されていますが、ここでの焦点は祈り手ではなく、祈りに答えてくださる方がどのような方であるかにあります。

 このたとえはどのように祈るのかではなく、なぜ祈るのかを教えています。「不正な裁判官」がもし利己的な理由で重い腰をあげてやもめの訴えを聞いたとするならば、「まして神は」(7節)と、不正な裁判官とは対照的な神がご自身の愛する民に対して、その願いを「いつまでも放っておかれることがあるでしょうか」、ないでしょう、だから失望しないで祈り続けなさいと、主はこのたとえをもって励ましているのです。

 あなたにとって、祈りは「特権」ですか、それとも「重荷」ですか。もししなければならない「重荷」のように感じているなら、神がどのような方であるか、もう一度思い起こす必要があるのではないでしょうか。神は「ご自身の御子を惜しまずに死に渡された方」(ローマ8:32)です。私たちにとって「天のお父様」です。主の答えは必ずしも私たちの期待どおりの方法や時や形で答えられないかもしれません。しかし、主が最善に答えてくださると信頼して、「恵みの御座」に近づきましょう(ヘブル4:16)。