祈りなさい ヤコブ5章12-20節

 
 ヤコブの手紙の最後の箇所へとやってきました。この箇所では三つの勧めがあります。一つ目は誓うことの禁止です(12節)。二つ目は祈るようにとの励ましです(13-18節)。三つ目は回復のための働きへの励ましです(19-20節)。

 まず、ヤコブが命じているのは誓うことの禁止です。誓うことは私たちの日常生活の中で避けられない時があるのではないでしょうか。「誓う」のは、自分の言葉が信頼できることを保証するためです。

 ヤコブは、「誓うことはやめなさい」と命じた後に、「天」「地」「ほかの何にかけても誓ってはいけません」と続けています。主イエスも「決して誓ってはいけません」と命じた後に「天」「地」「エルサレム」「自分の頭にかけて誓ってもいけません」と命じています(マタイ5:34-36)。また、誓うに際して何に訴えるかによって「果たす義務」がない、と言い逃れすることを非難しています(マタイ23:16-22)。ヤコブも主イエスも、どのような場合にも誓ってはならないと命じているのでしょうか。結論から言うならば、そうではありません。

 その理由は、まず、旧約聖書において、誓うことは禁じられていないということです(参 民数30:3、伝5:4)。また、新約においてパウロが何度も誓っているということです(2コリント1:23,ガラテヤ1:20他)。そして、何よりもヤコブも主イエスも拘束力のある誓いとそうではない誓いを巧妙に使い分けて言い逃れする不誠実を問題にしているということです。日本語には「嘘も方便」という言葉がありますが、ヤコブは私たちに言葉における誠実を求めているのです。

 次にヤコブは、私たちに祈るように励ましています。パウロも私たちに祈ることを奨励しています(参 エペソ6:18,Ⅰテサロニケ5:17)。ヤコブは「苦しんでいる人」には「祈り」を、「喜んでいる人には」「賛美」を勧めています。「苦しみ」と「喜び」は人生において対称的な状況です。「祈り」は神への依存を表明することであり、「賛美」は神をほめたたえることです。ヤコブは、どのようなときにも私たちの心を神に向けるようにと勧めている、と言っていいのではないでしょうか。

 ヤコブは、「苦しみ」の具体例として「病気」を取り上げ、病気の人は教会の指導者である「長老たち」を招き「主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい」と勧めています。オリーブ油がどのような目的のために塗られたかについては議論があります。ただ「祈ってもらいなさい」の従属的な行為であることは、15節の「信仰による祈りは」ということばからも分かります(参 1:6)。

 ヤコブは13節では、苦しみの中にある本人が、14節では教会の指導者が、そして16節では教会全体が祈るようにと励ましていることがわかります。「互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい」と命じ、その目的は「癒やされるために」としています。教会の中にある罪が祈りの答えを妨げることを示唆しているのでしょう。

 ヤコブは祈りには大きな力があることの例として「エリヤ」をあげています。エリヤは北イスラエル王国の暗黒時代(アハブ王と妻イゼベル)に活躍した預言者です。私たちは、エリヤだから祈りによって雨をとどめ、雨を降らせることができたのだ、そして平凡な私たちなどには無理だと思ってしまいます。しかし、ヤコブは、エリヤは「私たちと同じ人間」であったことを強調し、祈るように励ましています。

 このメッセージは2023.10.8のものです。なお、「ヤコブの手紙」(計12回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『信仰と行い』(B5版、37頁)にまとめられています。