主イエスの優先順位 マルコ1章35-45節

 
 
 私たちはみな、1日24時間を生きています。その時間をどのように使うかは何を優先するかということでもあると思います。優先順位を考える時に二つの大切な要素があります。一つは重要性であり、もう一つは緊急性です。論理的には、優先順位は重要であり緊急性のあるものが最も高く、重要ではなく緊急性のないものが最も低くなるということになります。しかし、実際には重要ではないことを優先し、早急にとりかからなければならないことを後回しにしてしまう現実があるのではないでしょうか。

 私たちは今、進行中の主イエスのガリラヤ宣教の様子を見ていますが、主は人々の必要に答えて超多忙な生活を送っていたことが分かります(参 3:20)。前夜の働きで疲れていたと思いますが(32-34節)、「イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」(35節)とあります。主は「祈り」を大切にしていたことがわかります。「寂しい」(35,45節)と訳されている言葉は、他では「荒野」(1:3,4,12,13)と訳されています。当時のカペナウム周辺は開拓されていて、「荒野」はなかったということなので、町から離れた人気のない、父なる神さまと二人だけで過ごせるところ、ということでしょう。福音書を読むときに、主がどのような場面で祈っているのかを知ることができますが(ルカ5:16,6:12,9:28,11:1)、マルコはそのうちの三回について言及しています(6:46,14:32-)。もちろん、それ以外に祈らなかったということではありません。

 主は山上の説教の中で「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」(マタイ6:6)と命じられています。主は弟子たちに命じられるだけではなく、ご自身がそれを実践しておられた事が分かります。

 神の子である主が父なる神との時間を大切にしておられたとするなら、私たちはどれほど大切にすべきでしょうか。人との関係において、誰かを知るには時間と交わりが必要であるように、神を人格的に知り、神とともに歩むためには、神との交わりの時をしっかり確保する必要があります。良い習慣を身につけることは容易ではありませんが、神は「報い」を約束してくださっています(マタイ6:6)。

 主イエスの早朝の祈りは、主を探しに来たペテロたちによって中断されたかもしれません(36節)。ペテロの「皆があなたを捜しています」との言葉には、人々の主の奇跡に対するさらなる期待というものが読み取れるように思います。また、ペテロたちもそれを期待していたでしょう。しかし、主はペテロたちに「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」(38節)と答えておられます。「出て来た」とは、父なる神から遣わされたことを言っているのでしょう。主は「様々な病気にかかっている多くの人を癒やされ」「多くの悪霊を追い出し」ておられました(34節,参 39節)。それらは苦しむ人々に対する主の憐れみや愛を示すものですが、父なる神から遣わされた第一の使命ではありませんでした。それらは一時的なものであり、永続的なものではないからです。

 主は「福音を伝える」(38節,参 1:14)という働きこそ優先すべきこととしておられました。教会も「福音を伝える」という使命を見失わないようにしなければなりません。


          このメッセージは2023.11.26のものです。