ゲツセマネの主の祈り マルコ14章27-52節
最後の晩餐が終わると、主と十一人の弟子たちは都の東側にあるオリーブ山の斜面にあった「ゲツセマネ」(32節)の「園」(ヨハネ18:1)へと向かいました。27-31節は、そこに向かう途上で語られた主のことばが取り上げられていて、特にペテロの三回の否認が予告されています(その成就は66-72節)。32-42節は、ゲツセマネにおける主の苦悩の祈り、そして43-52節は、主がユダの手引きによって逮捕され、弟子たちがみな逃げてしまったことが記されています。
主はゲツセマネの園に着くと、三人の弟子とともにさらに中に進まれ祈られました。そこには、これまでとは異なる主の姿が描写されています。マルコは「イエスは深く悩み、もだえ始め」と説明し、それを「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と、主ご自身の言葉で、さらに説明しています。主が何を祈られたかについては、「この時が自分から過ぎ去るように」(35節)「どうか、この杯をわたしから取り去ってください」(36節)とのことばから、差し迫った十字架の死の回避を求めていることがわかります。
主はこれもで何回もご自身の死を弟子たちに予告され(8:31,9:9,31, 10:34,12:8)またご自身の弟子としての覚悟についても語って来られました(8:34-35)。その主が死を目前にして怖じ気づいておられるということなのでしょうか。使徒の働きには、ステパテの殉教の場面がでてきますが、そこには死を恐れない彼の姿が描写されています(7:54-60)。私たちは主がご自身の死を前にして苦悶している姿をどのように理解したらいいのでしょう。主がこの後経験されようとしていた死は、私たちが恐れるような死とは異なる性質のものであったということです。
主の苦悩は、十字架という肉体的な苦痛や親しい者たちから見捨てられるという精神的な苦痛ではなく、私たちの罪を負って父なる神の御怒りを受け、完全に見捨てられるという恐れなのです。これまで父との絶えざる親しい愛の交わりの中を歩んで来られたお方にとって、父から完全に見捨てられるということがどのようなことなのか、私たちの想像をはるかに超えています(参 15:34)。
主は自分の願いを素直に言い表されたあと、「しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」(36節)と、ご自身の願いを明け渡して、父なる神のみこころにご自身を委ねられました。この主の祈りから、私たちは祈りとは本来どのようものであるか、ということを教えられます。私たちは信仰によって、神の子どもの一人となり、主と同じように「アバ、父よ」と呼ぶことが許されています(参 ローマ8:15,ガラテヤ4:6)。ですから、どのような小さな願いでも素直に求めることができます。しかし、自分の願いが父なる神の願いと明らかに違うことが分かったときに、あくまでも自分の願いを手放さず、私の望みを実現させてくださいと求めることではありません。父なる神のみこころが最善であると信頼して委ねることなのです。言葉で言うほど簡単ではないときがあるでしょうが、神に信頼し「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)、との祈りは神のみこころにかなった祈りなのです。
このメッセージ2024.8.11のものです。