祈り 神との交わり(会話)

 あなたが祈るときには、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます(マタイ6章6節)。

 教会の目的の一つは、「キリストの弟子を育てること」です(参 マタイ28:19、ヨハネ13:35、15:8)。では、霊的に誕生したクリスチャンが成長し、キリストの弟子となるために大切なことは何でしょうか。それは「祈り」です。新約聖書は私たちに祈るように繰り返し勧めていますし(Ⅰテサロニケ5:17ほか)、主ご自身も今回の箇所において「祈りなさい」と命じておられます。主の地上における公生涯はとても忙しいものでしたが、父なる神の前に祈る時をもっておられました(マルコ1:35、ルカ6:15ほか)。

 主は弟子たちに「あなたの父に祈りなさい」と命じていますが、真に祈るためには誰でも罪という問題を解決して、父の子どもという立場が必要です(ガラテヤ3:28,ヨハネ1:12)。なぜなら、「子どもたち」のみに「父よ」と呼ぶ特権が与えられているからです(参 ローマ8:15)。

 マタイ6章前半において、主はユダヤ人が宗教生活の中で「善行」として重要視していた三つ(「施し」、「祈り」、「断食」)を取り上げています。それぞれについて、「偽善者」たちがそれらを「人に見せるために」行っていることを戒め、「彼らはすでに自分の報いを受けているのです」(2,5,16節)、つまり人々から信仰深いという称賛の報いをすでに受けているとしています。そして、父から報いが受けられる真のあり方を改めて示しています。

 祈りについては、「偽善者たち」の例だけではなく、「異邦人」(7節)たちの例もあげて、ことば数の多さによって父の答えを引き出せるかのように考えている祈りを、「彼らと同じようにしてはいけません」と戒めています。父が子どもたちの祈りに答えられるのは、言葉の集中砲火を浴びせて、「いや、まいった」と音を上げさせることによるのではありません。父は私たちが言葉にする前から私たちの思いを正確に知っておられるお方なのです。

 祈りには、「賛美」、「感謝」、「告白」、「とりなし」、「願い」といった内容があります。もし私たちの祈りが、困ったときだけ神におねだりするようなものであるなら、自分の願いどおりにならないことに失望し、祈れなくなってしまうでしょう。祈りは私たちの願いを叶える魔法の呪文のようなものではないからです。祈りを神との交わりととらえる視点が必要です。

 交わり(会話)は私たちが神に語りかけるという一方通行だけでは成り立ちません。神はご自身の御心を聖書(みことば)に明らかにしておられます。ですから、私たちは神の御声を聞こうとするなら、みことばに向き合う必要があります。その上で、神に祈りを通して語りかけることができ、そこに会話が成立します。祈りとみことばは切り離すことができないものなのです。

 主は一人きりになって神との交わりの時を持つように命じられ、それに報いを約束しておられます(6節)。神との交わりを通して、私たちは人生のさまざまな局面において賢明な選択をする備えをすることになります(参 エペソ5:17)。また、それはさまざまな誘惑に勝利する備えともなるでしょう。祈りのない生活は隙だらけで、無防備な状態ということがいえます。

 さらに人は交わる人によく似ていきます。神との交わりを通して、自分の罪深さがよく分かるなら、そのような者に対する神の憐れみ深さも分かって、福音のすばらしさがさらに分かってくるでしょう。神がどのような方であり、また自分がどのような者であるかを知るにつれて、神は私たちのうちに御霊の実を結ぶように導かれ、キリストに似た者へと変えてくださるのです。

 祈りは神との交わり(会話)です。神は私たちをご自身との交わりへと招いておられることを覚えて、毎日その時を持ちましょう。よい習慣を身につけることは容易ではありませんが、その報いは大きいのです。

                       このメッセージは2020.12.6のものです。