罪を赦す権威をもつお方 マルコ2章1-12節



 主イエスはガリラヤ宣教の拠点としていたカペナウムの町へと戻ってこられました。1節の「家」とは、「シモンとアンデレの家」(1:29)のことかもしれません。今回の箇所だけではなく、これからマルコの福音書を読み進めていくと、主イエスのまわりには大勢の人たちがいたことが分かります(3:7-10,20,4:1,6:33 ・・・)。主の権威ある教えや数々の奇跡が大勢の人々を引き寄せていたのです。

 今回の箇所で、主のもとに来たものの「群衆」のために主イエスに近づけない人たちがいました。「中風の人」(体が麻痺し、半身不随の人だったと考えられる)を寝床のまま運んで来た四人の人です。彼らは主に近づくために、家の屋根に上り、「穴を開けて」、中風の人を寝床のまま主がおられるあたりにつり降ろすという大胆な行動に出ました。

 主は彼らの信仰をご覧になられて、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われました。中風の人をはじめ、中風の人を運んで来た四人にとって、それは思いがけない言葉だったと思います。なぜなら、彼らが期待した言葉は「起きて、寝床をたたんで歩け」(9節)という言葉であり、「あなたの罪は赦された」ではなかったはずだからです。

 主が「罪の赦し」に言及しているのは、中風の人に何か隠された罪があると考えてのことでしょうか(聖書においては、病気と罪を必ずしも結びつけていない 例:ヨブ)。それとも、すべての人が必要としている罪の赦しを考えてのことでしょうか。個人的には、中風の人を含めたすべての人が必要としている「罪の赦し」についての言及と理解したいと思います。

 主の罪の赦しの宣言を聞いていた「律法学者」が心の中で「神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」と批判しているのを主は見抜かれて、「中風の人に『あなた罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』というのと、どちらが易しいか」(9節)と彼らに尋ねられました。

 律法学者がどう答えたかは記されていません。あなたならどちらが易しいと答えるでしょうか。単に「あなたの罪は赦された」と言いうだけなら簡単でしょう。本当に赦されたかを証明しなくてもいいからです。しかし、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言って、歩かせることができないなら、口先だけということになってしまいます。どちらが易しいかの議論がありますが、いずれにしても主は目に見える肉体の癒やしを通して、目に見えない罪を赦す権威をご自身がもっておられることを証明されたと言えます。

 主が罪の赦しを宣言しているのは、この中風の人に対してだけではなく、罪深い女性として知られていた女性にも「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:48)と語られています。そのことばを聞いた人たちは「罪を赦すことさえするこの人は、いったいだれなのか」と語り合っています。そこにも、神のみが罪を赦す権威をもっているはずだ、という共通の認識があることがわかります。

 主はご自身が神のみがもつ罪を赦す権威をもつお方であることをここで明らかにされています。肉体の癒やしは大きな恵みに違いありません。しかし、それにまさる恵みは「罪の赦し」です。肉体の癒やしは一時的なものに過ぎないからです。主は私たち以上に私たちの人間の真の必要が何かを知っておられます。そして、だれでもその必要を信仰によって満たしてくださるのです(参 使徒10:43,ルカ24:47)。あなたは主から「あなたの罪は赦された」との約束をいただいているでしょうか。

   このメッセージは2023.12.3のものです。