主イエスの権威 マルコ1章14-31節


 いよいよ主イエスの宣教(公生涯)が開始されます。マルコは、主イエスのメッセージの第一声を「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)と記しています。「時が満ち」とは(参 ガラテヤ4:4)、神のご計画の時がいよいよ到来したということです。「神の国」の「国」(バシレイア)には「支配」という意味があります(マルコは「神の国」という言葉を14回用いていて、主イエスのメッセージの中心としている)、神の国は将来の希望であるとともに、主は「もうあなたがたのところに来ている」(マタイ12:28)と言われています。

 神の国に入り神の国の民となるために、二つの応答が求められています。一つは「悔い改め」、もう一つは「信仰」です。「悔い改め」と「信仰」は一つのコインの裏表のようなものであり、真の「信仰」には「悔い改め」というプロセスが含まれています。バプテスマのヨハネも「悔い改め」を強調していました。福音を正しく理解し受け入れるためには、ヨハネも主イエスも、罪と向きあうことを人々に求めたことが分かります。

 今回の箇所には、主が四人の漁師を弟子として召されたこと(16-21節)、安息日の会堂における主の教えと悪霊の追い出し(21-28節)、シモンの姑の癒やし(29-31節)の出来事が記されています。そこに共通するテーマは「主イエスの権威」です。

 まず、主はガリラヤで漁師をしていた二組の兄弟であるシモン(3:16:ペテロのこと)とアンデレ、ヤコブとヨハネを選ばれ、「わたしについて来なさい」と召されました。私たちは「神について行きましょう」と言えても、主のように自分の権威に訴えて「わたしについて来なさい」と言って弟子を召すことができない者です。当時のユダヤ教のラビと比較しても主の行為は異例のものであったでしょう。なぜなら、ラビは自分から弟子を召すことはなく、弟子の方から教えを乞い求めて師の門を叩くのが普通であったからです。

 主がどのような者たちを弟子に選んだかという点でも当時のラビとは異なっていたでしょう。普通なら選ばれそうにない「無学な普通の人」(使徒4:13)を主は選ばれたのです(参 Ⅰコリント1:27-29)。

 次の場面は、時は「安息日」、場所はカペナウムの会堂での出来事です。会堂における主の教えを聞いた人々は、その教えに驚いています(参 6:2)。それは「律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたから」(22節)です。当時の律法学者たちは、過去のラビ(教師)たちの権威に訴え、その言葉を引用し、自分の正当性を主張しました。しかし、主は誰かの言葉を引用することなく、直接権威をもって神のことばを語りました。

 会堂では、「汚れた霊につかれた人」がいて、主イエスの正体を知って脅威を抱き、恐れて叫んでいます(24節 参 ヤコブ2:19)。その悪霊に対して、主は「黙れ。この人から出て行け」(25節)との言葉をもって、その人から汚れた霊を追い出しておられます。

 主は汚れた霊(悪霊)の犠牲になっていた人を解放し、シモンの姑の病気を癒やしておられます。この後の主の歩みからも言えることですが、主はご自身の権威(力)を利己的には用いられませでした。今日の宗教指導者たちの中には権威を利己的に用いて、私腹を肥やし、盲目的な信者たちを隷属化している者がいるのを見聞きするとき、主こそ、「わたしについて来なさい」と招くことができる権威を持ったお方であり、私たちが従うべきお方であることが分かります。



         このメッセージは2023.11.19のものです。