罪と向きあう(1) サウル Ⅰサムエル記15章


 今回と次回で、二人の王が罪とどのように向きあったのかをみていきましょう。一人はイスラエルの初代の王となったサウル、もう一人はイスラエル王国の確かな基盤を築いた二代目の王ダビデです。二人の罪との向きあい方は、その後の二人の人生を大きく対照的なものとしてしまいました。

 さて、サウル王の罪の向き合い方からどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 一つ目は、罪の事実と向きあうことの困難さです。サウル王が自分の罪(不従順)を認めたのは、神が彼を「王位から退けた」(24節)との宣言の後です。 

 サウルは預言者サムエルを通して主から、アマレク人に属する「すべてのものを聖絶しなさい」(共同訳「すべて滅ぼし尽くしなさい」)と命じられました。それは彼らがイスラエルの民が約束の地へ向かう途上で卑劣な方法でそれを妨害したからです(2節 参 申命25:17-19,出エジプト17:8-16)。サウルはこのとき、神のさばきを代行する戦いを命じられたと言っていいでしょう。神は単に戦いに勝利することではなく、敵に属するすべてを容赦なく滅ぼし尽くすようにと命じられたのです。

 サウルは神の命令を自分勝手に解釈して、アマレクの王「アガグと、肥えた羊や牛の最も良いもの、子羊とすべての最も良いものを惜しんで聖絶しようとし」(9節)ませんでした。にも関わらず、サウルは預言者サムエルに対して「主のことばを守りました」、「主の御声に聞き従」ったと主張しています(13,20節)。羊や牛の「最上のもの」は「主に犠牲として献げるために」聖絶しなかったのだと弁解しています。そして、それは自分ではなく「兵たち」(15,21節)の意図によるものであると責任を転嫁しています。サウルは自分の選択的従順は罪ではないと、自分を正当化しているのです。私たちも主のことばに対して、従うべき範囲を自分勝手に選択して不従順を正当化していることがあるのではないでしょうか。

 二つ目は、不従順には高慢の罪が隠されているということです。22-24節には、四つの対の詩によって、従順(「聞き従うこと」)の重要性、不従順がどのような罪を意味するのか、そしてさばきが宣言されています。神は犠牲そのものを否定しているのではありません。主の前に不誠実であるなら、その犠牲は受け入れられないということです。「高慢」がなぜ「偶像礼拝」なのでしょうか。神の意志にそむきながら、それを正当化することは、神よりも自分を高く上げることを意味するからです。サウルは「あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた」と宣言されています。神は高慢な者を退けられるのです(参 ヤコブ4:6)。

 三つ目は真の悔い改めのないところに赦しはないということです。サウルは二回「私は罪を犯しました」(24,30節)と告白しています。しかし、ダビデのようには罪の赦しの言葉をいただくことはありませんでした(12:13)。サウルの二回目の罪の告白の後の言葉を見ると、彼の関心は神の赦しを得ることよりも民の前に王としての面目を保つことであったことが分かります(20節)。サウルは神から王として退けられながらも、その後も事実上王として君臨し続けました。その間に多くの罪がサウルによって行われました。そのことは、サウルが自分の罪と真剣に向きあおうとしなかったことを示しています。神は自分の罪を認めようとしない者を裁かれます。しかし、悔い改める者には憐れみ深いお方です(参 詩篇51:17)。そのことは次回のダビデに見ることにしましょう。


        このメッセージは2023.10.15のものです。