男たちと女たちへの勧告 Ⅰテモテ2章8-15節

 こういうわけで、私はこう願っています。男たちは怒ったり言い争ったりせずに、どこででも、きよい手を上げて祈りなさい。同じように女たちも、・・・神を敬うと言っている女たちにふさわしく、良い行いで自分を飾りなさい(Ⅰテモテ2章8-10節)。

 東京五輪・パラリンピックの大会組織委員会の森会長が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言を女性蔑視として問題視されて辞任に追い込まれました。

 新約聖書には、女性蔑視とも誤解されるような記述があります。たとえば、Ⅰテモテ3章12節の「女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい」との言葉もその一つに上げることができるでしょう。パウロは、いつでもどんなときでも、教えてはならない、沈黙しなければならない、と言っているのでしょうか。そうではありません。命じられている事情を無視して、その言葉だけを切り取ってしまうなら、聖書はどのような主張の根拠にもなってしまいます。正しい背景を理解して意味を汲み取る必要があります。

 パウロは今回の箇所で、男たちと女たちに対して何を勧告しているのでしょうか。男たちには1節を用いて、「どこでもきよい手を上げて祈りなさい」と命じ、女たちには7節を用いて「良い行いで自分を飾りなさい」と命じています。

 男たちには祈りの重要性を強調していますが、重要なのは「手を上げ」るという所作ではなく、「どこででも」と「きよい手」にあります。「どこででも」とは、家庭でも共に集う礼拝においてもということでしょう。「きよい手」とは、聖い神に対してどのように近づくべきかを示しています。罪を野放しにしたまま神に近づくことはふさわしくありません(参 イザヤ1:15,16)。「怒ったり、言い争ったりせずに」とありますが、男性は思い通りにならないと怒りによって相手を黙らせようとしたり(参 エペソ4:26)、意見の対立からつい「言い争ったり」してしまう傾向が強いからでしょうか。人との不和は祈りを妨げます。神にきよい手を上げて祈るには人との正しい関係が大切です(参 マタイ5:23)。

 女たちには、「つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪型や、金や真珠や高価な衣服ではなく」とあります。派手に身を飾る当時の女性たちの流行が背景にあるのでしょう。身なりをきちんと整える事は大切ですが、外見ばかりを気にして、そこに価値があるかのように身を飾ることは、神を敬うと言っている女にふさわしくありません。ペテロも、神の前に価値があるのは、女性としての外面の美しさではなく、内面の人格であることを強調しています(Ⅰペテロ3:3,4,参Ⅰサムエル16:7)。

 パウロは神を敬うと言っている女にふさわしい飾りは、「良い行い」であるとしています。「良い行い」の具体例はⅠテモテ5章10節にあります。

 パウロの11,12節の勧告には、テモテが牧会していた事情があったのでしょう。Ⅰコリント14章34,35節にも同じような勧告があります。そこでは公の礼拝の秩序を乱す女たちが念頭にあることが分かります。エペソの教会にも、でしゃばりで教会の秩序を乱す女たちがいたのでしょう。パウロは女たちがどんな時にも教えたりすることを禁じてはいません(参 使徒18:26)。そして、勧告の理由を二つあげています。一つは創造の秩序から、男性の指導性を示しています。もう一つは、女が「だまされて罪を犯した」ことをあげています。エペソの教会には、にせ教師に惑わされて、その影響を受けていた女性たちがいたからかもしれません。

 15節の「女は、・・・子を産むことによって救われます」は、聖書において難解な箇所の一つです。一世紀のキリシア・ローマ世界のキリスト教に詳しいブルーズ・ウィンター師によると、当時の女性たちが体型維持のため、美容目的の妊娠中絶をすることが流行していて、その処置のために女性たちがいのちを失うことも珍しくなかった、という事情があってのことばであると解釈しています。とするなら、ここでパウロは、もし子どもが授かったならば、体型や見栄えを気にしないで子どもを産み育てることによって、クリスチャン女性としての聖化への歩み(「慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまる」)をたどっていくことになるのです、と述べていることなります。



 聖書は、男たちも女たちも神のかたちに造られ、神の前に等しい価値を有する存在であることを教えています。そのことをしっかりと踏まえた上で、パウロの男たちと女たちへの勧告に心をとめましょう。

                            このメッセージは2021.2.14のものです。