監督(牧師)の資質 Ⅰテモテ3章1-7節

 ですから、監督は非難されるところがなく、・・・また、教会の外の人々にも評判の良い人でなければなりません(Ⅰテモテ3章2,7節)。

          

 私がクリスチャンになったのは、今から40年ほど前のことになります。信仰を持って間もなく、神さまは福音のために働きたいとの思いを与えてくださり、三年の社会人生活に区切りをつけて神学校へと進みました。神学校に入学した頃、牧師が実際にどのような働きをするのか、また牧師にどのような資質(資格)が求められているのかも殆ど知らない状態でした。そのような者が、今日まで牧師の働きに携わることが許されているのは神さまのあわれみと、兄弟姉妹たちの励ましがあったからです。また、神さまが与えてくださった召しに支えられてきたからです(参 1:18)。

 先に、「教会について」のシリーズの説教の中で、教会の職務を取り上げましたが、「監督」は「長老」や「牧師」と同義語として理解できます。それは神から委ねられた神の羊たちを牧する職務です。

 パウロは、ここで監督の十五の資質(資格)を上げています。それらを簡単に見ていくことにしましょう。

 第一の「非難されるところがなく」とは、責められたり、咎められたりしないということです。

 第二の「一人の妻の夫」とは、妻帯者であるなら、一人の妻に対して誠実であるということです。

 第三から第五は意味が重なる語です。「自分を制し」とは、セルフ・コントロールができるということです。「慎み深く」(2:9)とは、思慮深く、分別があるということです。「礼儀正しく」とは、言葉や振る舞いが見苦しくないということです。

 第六の「よくもてなし」とは、客を親切にもてなすということです。

 第七は「教える能力があり」とは、よく教えることができるということです(Ⅱテモテ2:4)。それは信徒たちを健全な教えによって養い、誤った教えに惑わされないようにするためです(参 テトス1:9,2:8)。

 第八の「酒飲みでなく」とは、お酒に節度があるということでしょう。

 第九から第十一までは対人関係についてです。「乱暴でなく」とは、暴力的でないということです。次の「柔和」は、「寛容」や「優しい」とも訳されることばであり、「乱暴」や「争う」と対峙する精神です。「争わない」とは、争いを好まないということです。

 第十二の「金銭に無欲で」(直訳「金銭を愛さない」6:10,Ⅱテモテ3:2)とは、お金に執着しないということです(参 Ⅰペテロ5:2)。

 第十三の「家庭をよく治め」の「治め」(プロスティーミ)は、他の箇所では「指導する」(Ⅰテサロニケ5:12)と訳されています。「子どもを従わせている」とは、子から尊敬を受けているということでしょう。5節は「もし」で始まる条件文なので、もし家庭という小さな集団を導くことができないなら、より大きく様々な人々からなる集団である「神の教会」を指導できるだろうかと問いかけ、4節の理由を説明しています。

 第十四の「信者になったばかりの人であってはいけません」とは、その働きには成熟さが求められているということです。

 第十五の「教会の外の人々にも評判の良い人」とは、地域社会から遊離するのではなく、未信者たちに対しても「良い証し」(直訳)を立てている者である、ということです(参 コロサイ4:5,Ⅰテサロニケ4:12)。

 一つ一つの資格を自らに問いかけるとき、ふさわしくない者が主のあわれみによってその務めに立たせていただいていることを覚えます。牧師も成長過程にあって「工事中の者」です。兄弟姉妹たちの支えや助けを必要としている者です。ぜひ牧師のためにお祈りください。

                           このメッセージは2021.2.21のものです。