主の顕現の目的 再出発の備え ヨハネ21章1-14節



 主イエスは復活された後、ご自身を使徒たちに現されましたが(参 使徒1:3)、今回は、その「三度目」の場面です(14節 参 19:19-,19:24-)、今回の状況においてご自身を現された目的は何だったかのでしょうか(一度目と二度目は、ご自身が確かに復活されたことを示すため)。

 元漁師であったリーダー格のペテロが「私は漁に行く」と言うと、他の六人の弟子たちも一緒に漁に出かけました。主に従うために網を捨てたはずのペテロがここで網を手にしているのは(参 ルカ5:11)、漁師の生活に戻ろうとしたためではなく、当座の生活の糧を得るためだったと考えられます。彼らは「夜が明け始め」るころまで漁をしましたが、一匹の魚もとることができませんでした。そのような状況を知っていて、岸辺から「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と呼びかける人がいました。彼らが「ありません」と答えると、その人は「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と指示しました。その人とはよみがえられた主ご自身だったのですが、舟から岸辺まで九十メートルぐらいの距離があったことや、まだ夜がしっかり明けきっていなかったためか、彼らにはそれが主であることがわかりませんでした。その見知らぬ人の言葉に従って網を打つと網を引き上げることができないほどの魚がとれたのです。

 思い返せば、これと似たようなことがありました(参 ルカ5:1-11)。そのこととの関連からかどうかわかりませんが、「イエスが愛されたあの弟子」(おそらく、「ヨハネ」)が、今まで見知らぬ人と思っていた人が「主」であるとわかって、「主だ」とペテロに言うと、ペテロはすぐに湖に飛び込んで主のもとへ行こうとしました。なんともペテロの性格らしい行動です。弟子たちが陸地に上がると、主は夜通し漁をして戻って来た弟子たちをねぎらうかのように、朝食を用意して迎えてくれました。

 さて主が、今回ご自身を現された目的は何だったのでしょうか。一つ目は、以前と変わらない親しい交わりを示すためだったでしょう。弟子たちは主が十字架にかかられる前は、何度も主とともに食事をしたことでしょう。しかし、今回の食事はそれまでとは違ったものだったと思います。おそらく、その食事は弟子たちにとって主がよみがえられてから共にする最初の食事ではなかったかと思います。今回の食事は弟子たちにとって空腹を満たし、疲れをとるだけではなく、主との親しい交わりの時となったはずです。

 かつて弟子たちは、死を覚悟して主に従う意志を表明していましたが(マルコ14:30-31)、主を見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:50)。すでに数回、主とお会いしているとはいえ、後ろめたさを抱えていたと思います。今回の交わりは裏切った自分たちを、主が変わらず受け入れてくださることを弟子たちに確信させるものとなったことでしょう。

 二つ目の目的は、弟子たちをその使命にしっかりと立ち返らせるため、つまり再出発させるためだったでしょう。15節以降には、主を三回否定したペテロを個人的に励まし牧者として立たせようとしている主の姿があります。ですから、この場面でも、ご自身が昇天された後、弟子たちに託した宣教の使命に立たせるため、ご自身を現されたと考えることが自然でしょう。ペテロたちが主に献身して従うきっかけとなった大漁の奇跡(ルカ5:1-11)と同じような奇跡は、弟子たちを主の召命に新たに立ち返らせる機会となったに違いありません。

 信仰生活においても主に従った時の初心に返ることはとても大切です(参 黙示録2:4-5)。自分の経験や知識に頼るのではなく、主のことばに従って行くとき、主の御業が成し遂げられていくことを覚えましょう(参 箴言3:5,16:9)。


          このイースター・メッセージは2024.3.31のものです。