子どもたちをどこへ マルコ10章13-16節



 主イエスのもとに子どもたちが連れて来られたときのこと、それを叱って、追い返そうとした弟子たちがいました。そして、そのことを憤って弟子たちを叱る主の姿がここにあります(並行:マタイ19:13-15、ルカ18:15-17)。「子どもたち」(ルカ18:15「幼子たち」)を主のもとに連れて来たのは、13節では「人々」とあり、特定されていませんが、おそらく両親たちでしょう。

 さて、今回のエピソードからどのようなことを見出すことができるでしょうか。まず、弟子たちは主の教えから学んでいないということです。弟子たちがどのような理由で子どもたちを追い返そうとしたのかは記されていませんが、子どもたちを軽視する思いがあったことは確かでしょう。

 主は先に、「仕える者」となることを教えるために、子どもを「腕に抱」き、「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」(9:36-37)と語られていました。社会的に地位のない弱い者を配慮するようにとの主の教えは、残念ながら彼らには届いていなかったことがわかります。

 次に、神の国に入るためには子どものような性質が必要だということです。主は、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」と歓迎され、「神の国はこのような者たちのものなのです」(14節)「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」(15節)と教えられました。主は子どもが無条件に神の国に入れると約束されたわけではありません。なぜなら、子どもも自己中心的でわがままであり罪人だからです。では、子どもの「ような」とは、いったいどのような性質を主は念頭におかれて語られたのでしょうか。いろいろな議論がありますが、一つは依存性ではないかと思います。小さな子どもは自分が弱く、親に依存していることを知っています。神の国に入るのは、その罪の故に自分の力では入ることができず、神の恵みに全く依存していることを知っている者です。

 もう一つは、信頼性ではないかと思います。子どもは大人とくらべると、差し出されている賜物を素直に受け取ることができるというところがあります。大人になると、差し出す側の動機をあれこれ詮索して躊躇してしまうことがあるのではないでしょうか。神の国に入るのは、神がキリストを通して差し出してくださっている賜物を信頼して受け取ることができる者なのです。

 最後に、主のもとに子どもたちを連れて来た親たちの信仰を見ることができるのではないでしょうか。子どもはいろいろなニーズを持っています。たとえば、衣食住といった生活に欠かせない物質的な物、また親の変わらない愛情に基づいた励ましやしつけ、そして主だけが提供できる霊的な祝福。経済的にゆとりがあるならレジャー施設に連れて行くこともいいでしょう。楽しい思い出になるに違いありません。いろいろな習い事に連れて行くこともいいでしょう。将来のために大いに生かされるかもしれません。しかし、キリスト者の親であるなら、何よりも子どもの霊的な必要(主の救いにあずかり、神さまと共に人生を歩むこと)に心を配り、それが満たされることを願うべきではないでしょうか。もし、弟子たちが子どもたちが主のもとへ行くことを妨げたように、私たちの不信仰が子どもたちが主のもとへと行くことを妨げているとしたら、主も私たちに「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」とお叱りになるのではないでしょうか。今、私たちは子どもたちをどこに連れて行こうとしているのでしょうか? 


             このメッセージは2024.5.12のものです。