弟子としての道 マルコ10章32-52節


 ペテロが主イエスに対して「あなたはキリストです」と告白してから、主がご自身の受難(死)と復活について予告されるのは今回が三回目(8:31,9:31,10:33-34)です。今回の予告が最も詳しく、主と弟子たちの旅のゴールが「エルサレム」であることが明言されています。そして、ご自身の死におけるユダヤ人の役割と異邦人の役割を区別しています。

 今回の予告に対しても、残念ながら弟子たちはそれを理解できていないことが明らかになっています。ゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネが他の使徒たちを出し抜いて、「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」と求めています(マタイ20:21では彼らの母が関与している)。主が強い覚悟をもって死ぬためにエルサレムに向かおうとしておられるのに、死を飛び越して、主に次ぐ栄光の座を求めているのです(参 マタイ19:28「人の子がその栄光の座に着くとき」)。主は大胆な野心を露わにしている彼らに対して「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません」と言われて、「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか」(39節)と尋ねています。「杯」と「バプテスマ」とは、主が直面しようとしている苦しみや死を象徴しています(参 14:36,ヨハネ18:11,ルカ12:50)。ヤコブとヨハネは主の問いに対して「できます」と答え、主はそれを肯定されていますが、ゲツセマネの園で主を見捨てて逃げてしまったように、その意味を彼らは本当には理解していなかったのです。ヤコブとヨハネの二人が自分たちを出し抜いて高い地位を求めたことを知ると、他の十人の弟子たちは怒りました。

 主は相変わらず野心を抱いている弟子たちに対して、今回においても主の弟子としてのあり方を悟らせようとしています。まず、この世の異邦人のリーダーたちのあり方(「横柄に振る舞い」「権力を振るう」)と、ご自身に従うリーダーのあり方が違うことを示し(参 ルカ22:24-)、ご自身に従うリーダーは、謙遜に「皆に仕える者」(参 9:35)であり「皆のしもべ」とならなければならないことを教えています。更に、ご自身がこの地上に来臨された目的を「仕えられるためではなく仕えるため」であり、また「多くの人の贖いの代価として、自分のいのちを与えるため」であることを明らかにしています(参 イザヤ53:10)。「贖いの代価」(リュトロン マタイ20:28)とは、奴隷や囚人を解放するために支払われる代価(身代金)のことを指します。主はご自身の来臨は死ぬためであり、その死の目的は人々の罪のための身代わりの犠牲であることを明らかにしておられるのです。そして、ご自身に従う弟子たちに、ご自身の模範に従うようにと求めているのです(参 Ⅰペテロ2:21)。

 主は理解の鈍い弟子たちに対して同じレッスンを忍耐強く学ばせようとしておられます。それはご自身の死だけではなく、ご自身の昇天後の働きに彼らを備えさせるためです。主の忍耐強いお取り扱いは、今日の私たちに対しても変わらないのではないでしょうか。

 主は権力の座を求めたヤコブとヨハネに対して、謙遜に仕えることがご自身の弟子としての道であることを教えておられます。ヨハネはその手紙において「かしらになりたがっているディオテレペス」(Ⅲヨハネ 9節)のことを取り上げています。私たちは謙遜に「愛をもって仕え合」う(ガラテヤ5:13)ことを忘れてはなりません。そうでないなら交わりや一致は損なわれてしまうのです。


      このメッセージは2024.5.26のものです。