牧会者(伝道者)の責任 Ⅰテサロニケ2章1-12節
パウロは「兄弟たち」(1,8節)と親愛の情を込めてテサロニケのクリスチャンたちに呼びかけ、彼らのところにいたとき自分たちがどのように振舞ったのかを思い起こさせています。そのことは、「あなたがたが・・・知っているとおり」(1,5,11節)、「ご存じのように」(2節)、「あなたがたが証人であり」(10節)とのことばから分かります。パウロがなぜ、自分たちのことを思い起こさせているのでしょうか。多くの注解者は、彼らに対する非難が背後にあり、それに対して弁明していると考えています(パウロたちに対する非難を証明するものはなく、「弁明」ではなく「模倣」を示していると考え人もいる – Shogren)。
今回の箇所から私たちは、牧会者(伝道者)が負っている二つの責任を読み取ることができるのではないでしょうか。一つは語る言葉(13節「神のことば」)に対する責任、もう一つは霊的に誕生した神の民に対する責任です。
まず、神のことばに対する責任のほうから見ていきましょう。パウロは2節でテサロニケに来る前のピリピでの迫害について述べています(使徒16:12-)。ピリピではローマ市民権を持つ者が何の取り調べも受けずに鞭打たれ、投獄されるという辱めを体験しています。こんな辛い経験をするならひるんでしまいそうですが、パウロたちはテサロニケへと進みなおも福音を語るのを止めませんでした。それは持ち前の強さからではなく、「神によって勇気づけられ」てです。その結果、テサロニケの地に教会が誕生したわけですから、彼らのところに行ったことは、無駄にはならなかったのです(1節)。
3節でパウロは三つの否定(・・・でない)を用いて弁明しています。一つ目の「誤り」から出てはいないとは、メッセージの出所、つまり語った言葉の真実性についての弁明です。二つ目の「不純な心」からでもない、とはメッセンジャーの動機です(人々を喜ばせて、金銭を得ようとするものではない)。三つ目の「だましごと」(共同訳「策略」)でもないとは、誰かを欺こうとする意図がないということです。つまり、パウロはメッセンジャーの誠実さについての弁明をしているのです。
パウロは自分たちが語ることばが、神に認められ、託された「神の福音」(2,8,9節)であることを認識していました(参 Ⅰテモテ1:11)。そして、それを語る動機も、人を喜ばせ、人からの「栄誉」(共同「誉れ」)を求めようとするものではなく(6節)、「心をお調べになる」神を喜ばせようとするものであったことを訴えています(4節)。語る相手がいるので、相手を配慮しなければなりませんが、神に対して責任を負っていることを忘れてはなりません。
パウロは、5節でも自分たちの誠実さを理解してもらうために、神を「証人」にして(10節でも)、「あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません」と訴えています(参 使徒20:33,34)。「へつらい」とは、お世辞などを使って相手をよろこばせようとすることです。「貪り」(ローマ1:29「貪欲」)とは、もっと得ようとすることです。
人を恐れずに神のことばを語るためには神の助けが必要です。また、その働きをする正しい動機を持つことも必要です。神を喜ばせるという動機は、神への奉仕だけではなく、クリスチャン生活のすべの領域において見失ってはならない動機なのです(参 コロサイ3:10,エペソ5:10,Ⅱコリント5:9)。
[霊的に誕生した神の民に対する責任について(愛情深い母親のように、しっかりと指導する父親のように振舞ったことについて)は、説教集を見て下さい]
このメッセージは2022.4.24のものです。