執事の資質 Ⅰテモテ3章8-13節
執事として立派に仕えた人は、良い地歩を占め、また、キリスト・イエスを信じる信仰について、強い確信を持つことができるのです(Ⅰテモテ3章13節)。
今回は「執事」の資質を取り上げましょう。まず、訳語の問題から見ていきましょう。「執事」と訳されているのは、「ディアコノス」というギリシア語です。新改訳2017で「執事」(職務名)と訳されているのは、今回の段落とピリピ1章1節のみです。他は、「奉仕者」、「仕える者」、「しもべ」と訳されています。ですから、文脈から職務名か否かを判断する必要がでてきます。
次に、執事はどのような働きをしたのでしょうか。その内容についてははっきりしていません。順序は監督の次に出てくるので、監督の指導のもとに、監督を補佐し、共に教会に仕える働きをしたと考えられます。
使徒の働きの6章には、ギリシア語を話すユダヤ人のやもめたちが配給を受けられないという問題が持ち上がったとき、その実務のために、ステパノを始めとする七人が会衆の中から選ばれました。彼らは「執事」とは呼ばれていませんが、彼らが担った実務は、後に「執事たち」が担った働きの一つと考えていいのではないでしょうか。
次に、執事たちの資質を一つ一つ簡単に見ていきましょう。
第一の「品位があり」とは、尊敬に値するということです。
第二の「二枚舌を使わず」とは、「ある人にはこう言い、他の人には、別のことを言うようなことのない」ということです。交わりを崩壊させるものは舌のわざです(ヤコブ3:5-)
第三の「大酒飲みでなく」は、監督の「酒飲みでなく」(3:3)とは程度の差を示しているのでしょう。何事にも自制が重要です。
第四の「不正な利を求めず」とは、恥ずべき利益をむさぼらないということです。
第五は「きよい良心をもって、信仰の奥義を保っている人」です。「信仰の奥義を保っている」とは、健全なキリスト教信仰の理解を持っているということです。「きよい良心をもって」とは、信仰についての真理の知識が生活と一致しているということです。執事には「教える能力がある」ことを求められてはいません。それは執事の本質は監督と違って教師ではないからです。
11節の「女の人」(ギュネー)は、文脈によって「女」とも「妻」(12節)とも訳される言葉です。ですから、欄外注にあるように、「女性執事」のことか、「執事の妻」のことを述べているのか意見がわかれます。そこには「彼らの」という代名詞はありませんが、「執事の妻」のことを述べていると考えたらよいのではと思います。男性の執事の資質を述べ、彼に協力する妻の資質を短く述べたあと、「一人の妻の夫」であると続き、家庭の条件で終わっているとするのが、文脈的にすっきりしているように思うからです。
執事については、監督にはなかった選出に関する記述がみられます(10節)。候補となる人を審査した上で、「非難される点がなければ」その職務に仕えさせなさいとしています。
パウロは、執事についての段落を「執事として立派に仕えた人」の祝福、励ましを述べて締めくくっています。一つ目は、神の目にも人の目にも、良い評判を得るということ、二つ目は、霊的な成長を通して、確信に満ちた歩みができるということでしょう。
教会の中にクリスチャンたちが尊敬し、信頼できる執事がいるということは幸いです。執事の職務を担える人たちが与えられるように祈るとともに、私たちはみな互いに仕え合う者であることを忘れないようにしましょう。
このメッセージは2021.2.28のものです。