救いに共通するもの 使徒9章1-20節

 どのように救い(信仰)に導かれるかは、人それぞれ違っています。「使徒の働き」を見ると、8章にはエチオピア人の宦官が、10章には異邦人のコルネリウスが、16章にはピリピの看守が、それぞれ救いに導かれる様子が出てきます。そして、今回取り上げようとしているパウロが救いに導かれる様子は9章に出てきます。

 今日のクリスチャンたちにおいても、どのように救いに導かれたかは、それぞれがその物語(証し)をもっていて、それはその人固有のものです。パウロのように名前を呼ばれたこともなかったでしょうし、天からの光に照らされて地に倒れ、一時的に目が見えなくなるということも経験しなかったでしょう。そのような体験はパウロ固有のものであり、すべての人に共通するものではありません。しかし、すべての人に共通する点があるとすれば、それは何でしょうか。

 まず、救いは行いではなく、神の恵みであるということです。パウロ自身、救いが「恵み」であることを繰り返して述べています(Ⅱテモテ1:9、エペソ2:8)。パウロのような教会を激しく迫害をした者には「恵み」であるが、そうでない人は「行い」だということではありません。すべての人が神の前に罪人であり、善行によって救いに入ることのできる人はいません。ですから、救いに共通するものは「恵み」なのです。

 次は、神は人を強制されないということです。カルト宗教では、マインドコントロールが用いられたりします。本人は自分の自由な意志のもとに決断しているように思っています。しかし、実はそうではなく、それは巧妙な手法なのです。

 パウロと復活の主とのやりとりをみると、理性的な判断が働いていることがわかります。パウロは「主よ、あなたはどなたですか」(使徒22:8)と問いかけ、さらに「主よ、私はどうしたらよいでしょうか」(使徒22:10)と問いかけています。その後、三日間断食して祈り、悔い改めて信仰に入ったことがわかるのではないでしょうか。

 神は人が自分の罪を悔い改めて救われることを望んでおられます(Ⅰテモテ2:4、Ⅱペテロ3:9)。だからといって、私たちの意志を踏みにじり、信仰を強制されるのではありません。自由な意志に基づいて、ご自身が備えられた福音(救いのメッセージ)に応答するように招いてくださっているのです。あなた自身のことを考えてみてください。強制されたので仕方なく今も信じているのですか。そうではないでしょう。

 最後に、神は目的をもって救われるということです。パウロは主の弟子であるアナニアによって自分の使命を明らかにされています(使徒9:15)。クリスチャンにとって救い(入信)はゴールではありません。すべての人が同じような働きに召されているのではないでしょう。しかし、復活して今も生きておられる主を証しするためにそれぞれの場に遣わされているのです(参 Ⅰペテロ2:9、ヨハネ15:16)。

 激しく教会を迫害していたパウロが、なぜ教会を各地に建て上げるために苦しむことをいとわない者となったのでしょうか(参 Ⅱコリント11:23-)。彼が述べているように、復活の主にお会いした(Ⅰコリント15:8,9:1)という事実以外に考えることができないのではないでしょうか。もし復活が事実ではないなら、宣教は空しく、救いが偽りであるということを最も良く知っていたのはパウロであったはずです(Ⅰコリント15:14-)。私たちはパウロの人生をとおして、復活の事実に対する確信をもつことができる者とされているのです。


                       このメッセージは2022.4.17のものです。