立派な奉仕者 Ⅰテモテ4章1-10節

 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰のことばと、自分が従ってきた良い教えのことばで養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります(Ⅰテモテ4章6節)。


 4章に入ると、パウロの「あなたは」(6,11,12節)という言葉から、テモテへの個人的な指導や助言の内容になっていることが読み取れます。そして、パウロはここで「立派な奉仕者」となるようにと願って、いくつかの助言をしています。「キリスト・イエスの」ということばから「奉仕者」(ディアコノス)が仕えるべきお方は、「キリスト・イエス」であることが分かります。さて、「立派な奉仕者」とはどういう者でしょうか。

 一つ目は、誤った教えに対してしっかりと警告できるということです(3-6節)。パウロは、「後の時代」になると背教が起こることを御霊によって警告しています(英語の「背教する apostatize」という語は、1節の「離れる」に由来する)。パウロは、背教がどのように教会の中で起こり、広がっていくかを説明しています。

 1節の「ある人たちは惑わす霊、悪霊の教えとに心を奪われ」ということばから、人々を信仰から引き離すために働いている悪魔や悪霊の存在をみていることが分かります。「御霊」は「真理の御霊」と呼ばれるように、人々を真理へと導かれるのに対して、神に敵対する悪の霊的存在者たちは今も人々を真理から遠ざけようと働いています。

 2節の「偽りを語る者たち」ということばから、直接背教へと誘う「にせ教師」の存在を見ていることが分かります。彼らは「良心が麻痺した」者たちです。「麻痺した」とは、直訳すると「焼き印が押された」という言葉です。良心の警告を無視し続けた彼らの良心は健全に機能することを止め(参 2:19)、無感覚となっているのです。さらに、彼らの「偽善」にも言及しています。彼らは意図的に「偽りを語る者たち」であるということです。

 テモテが牧会していたエペソの教会には「結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたり」するにせ教師たちがいて、彼らは誤った禁欲主義を教えていました。結婚と食べ物は、人間の体の最も基本的な欲求(性欲と食欲)に関係しています。それらは神が人にお与えになったものであり良いものです。もちろん、それらは人の堕落によって乱用され罪となるケースも多々あります。しかし、だからと言って、禁欲的な生き方のほうが霊的で聖いということにはなりません。結婚は神が定められた制度です。それを軽蔑したり、禁じることは誤っています。食べ物も同様です。私たちが感謝して食べるようにと神が備えられた良いものを拒む理由はありません。5節の「みことばと祈りによって聖なるものとされる」とは、みことばに基づく正しい認識と感謝の祈りによってそれは聖別されるということでしょう。

 私たちが信じるお方は、「すべての物を豊かに与えてくださる神」(5:17)です。ですから、指導者は誤った禁欲主義や律法主義によって兄弟姉妹たちの生活から神が備えようとされている喜びを締め出さないように指導する必要があります。

 二つ目は、良い教えに自らが従い、それによって養われているということです(6節)。パウロはテモテに教えることの重要性を強調していますが、私たちが信仰の真理を効果的に誰かに教えようとするなら、その前に自らがその真理によって養われて、従っている必要があります。

 三つ目は、敬虔のための自己鍛錬を怠らないということです(7節)。パウロは肉体の鍛錬と霊性の鍛錬を対比させています。肉体の鍛錬は「少し有益」なのに対して、霊性の鍛錬は「すべてに有益」であるとして、霊性の鍛錬の重要性を強調しています。パウロは、敬虔のための自己鍛錬とは何かを具体的には説明していませんが、デボーションや礼拝などを指しているのでしょう。肉体の鍛錬が偶然に身につくものではないように、霊性の鍛錬も同様です。神との豊かな関係を築こうとするなら、それを願い、神の助けによってそれにしっかり取り組む必要があるのです。

                                    このメッセージは2021.3.14のものです。