励ましと弁明 Ⅰテサロニケ2章13-20節

 パウロは、ここで新たに感謝の思いをあらわしています。それは彼らがパウロたちの語ったことばを「神のことば」として受け入れてくれたからです。

 プロテスタント教会の礼拝において、「神のことば(説教)」は大きな位置を占めていることでしょう。礼拝における祈りや賛美を決して軽んじるわけではありませんが、祈りや賛美も神のみことばの正しい理解がなければ、御心にかなった祈りや賛美が何であるかを知ることはできないでしょう。私たちの救いをはじめとして、クリスチャンとしてどのように歩むべきかを知るのも、神のことばなくしてはあり得ません。ですから、牧師は礼拝の中で神のことばが正しく語られるように注意を払い、その語られたことばへのふさわしい応答をとおして(信仰 ヘブル4:2)、クリスチャンたちの生活が変えられることを願っているのです。

 パウロたちは神から託された「神の福音」(参 ガラテヤ1:11,12)をテサロニケのクリスチャンたちに語りました。そして、その語った福音は正しく受け止められ、彼らのうちに働いているのをパウロは見ることができました。それは彼らが迫害の中にあっても信仰を守り続けていたからです。

 パウロは、テサロニケのクリスチャンたちが同胞から受けた苦しみ(迫害)は、ユダヤのクリスチャンたちがユダヤ人から受けたものと同じものであることを指摘し、ユダヤ人たちの罪を告発しています。そして、そのような、神の目的に敵対する者たちに対する裁きが確実なことを宣告しています。迫害する者たちと彼らに対する神の御怒りの宣告は、クリスチャンたちに迫害が避けられないものであることを示し(参 Ⅱテモテ3:12)彼らを励ますためです。

 パウロは苦しみの中にあるクリスチャンたちを励ます一方で、弁明をしています。おそらく、パウロたちがテサロニケに戻って来ることがなかったことに対する批判を念頭に置いているのでしょう。パウロは自分たちがテサロニケのクリスチャンたちに対して、無関心でも見捨てたのでもないことを理解して欲しいと思っています。弁明は3章へと続いていますが、この2章では二つのことを述べています。

 一つは、不本意ながらテサロニケを去らなければならなかったということです。「引き離された」(17節)は、字義的には「孤児にされた」という意味です。ある注解者は「子どもを奪われた親にもあてはまる」と言っていますが、もしそうなら、愛する子どもから強制的に引き離された親のような心境をことばにしているのかもしれません。しかし、直接顔を見ることはできなくても、心においてはそばにいることを明らかにしています。

 二つ目は、何度も行こうとしたが、サタンの妨げによって行くことができなかったということです。パウロたちがどのようにして、それをサタンのしわざだと言うことができたのか、私たちには情報不足でわかりません。



 パウロは思いどおりにならない現実に落胆はしていません。たとえ会えないとしても、自分たちにとって彼らがどのような存在であるかを示すことによって彼らへの愛情を明らかにしています。パウロが思い描いているのは、主イエスの再臨の時に、信仰を守り通したテサロニケのクリスチャンたちと共に主イエスの御前に立つ姿でしょう。そして、彼らこそ自分たちの「望み、喜び、誇りの冠」(「冠」は、勝利の象徴)となる存在であり、さらに「あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜び」であるとしています。「あなたがたの存在は私たちにとって『喜び』(参 ピリピ4:1)です」と言われるクリスチャンは何と幸いでしょうか。


                            このメッセージは2022.5.1のものです。