にせ教師と真の教師 Ⅱテモテ2章14-26節
テモテが牧会していたエペソの教会には、にせ教師の問題がありました。そのことはすでに第一の手紙において見てきました(1,4,6章)。そして、第二の手紙においてもにせ教師の問題が取り上げられています(2:14-3:9)。にせ教師たちが自分たちの知識を誇り論争好きであったことは、この第二の手紙からも読み取れます(2:14,16,23)。
はじめに、パウロがにせ教師を念頭において、テモテにどのようなことを命じているのか簡単にみていきましょう。まず、「ことばについての論争をしないように」命じています。その論争が何の益ももたらさないばかりか、会衆に害をもたらすものであったからです(14節)次に、「俗悪な無駄話を避けなさい」と命じています。にせ教師たちが人々を神から遠ざけ、会衆の信仰に悪影響を及ぼしていたからです(16-18節)。さらには、「愚かな無知な議論」を避けなさいと命じています。その議論は争いを生むものであったからです(23節)。
パウロは、にせ教師とは対照的な真の教師として立つようにテモテに勧めています。そして、三つの比喩を用いて真の教師のあるべき姿を説明しています。
一つ目の比喩は「恥じることのない働き人」です。恥じることのない働き人とはどのような教師のことでしょうか。まず、それは神に認められる人です。「務めにふさわしいと認められる人」(三版「熟練した者」共同訳「適格な者」)とは、神の試験を受けて神から認められた者という意味です。にせ教師は人から認められようとしていたことでしょう。しかし、真の教師が気にとめるべきは神の評価です。次に、「真理のみことばをまっすぐに解き明かす」人です。「真理のことば」とは「神のことば」と言い換えることができるでしょう。恥じることのない働き人は、人のことばではなく、神のことばを曲げることなく語り(Ⅱコリント4:2)、人々を真の敬虔へと導く者です。そして、その務めに献身する人です(「自分を神に献げるように最善を尽くしなさい」)。神のことばをよく学び、それを正しく伝える働きは片手間でできる働きではありません。
二つ目の比喩は「尊いことに用いられる器」です(21節)。パウロは「大きな家」(教会)にある二種類の「器」について語っています。尊いことに用いられる高価な器と卑しいことに用いられる安っぽい器です。この二種類の器は何を指しているのでしょうか。それは真の教師とにせ教師です。パウロは「これらのことから離れて自分自身をきよめるなら」、「主人にとって役立つ」、「尊いことに用いられる器」となると述べています。「これらのこと」とはにせ教師の誤った教えのことでしょう。そして尊いことに用いられる器となるためには、きよさが必要であることを教えています。
三つ目の比喩は「主のしもべ」です。パウロは「争ってはいけません」と命じて、主のしもべとして「反対する人たち」をどのように導くべきかを述べています。その特徴は、「優しさ」と「忍耐」と「柔和」です。そのように接する目的は、その人々の救いを願ってのことです。パウロは真理に背を向けている人たちは、悪魔の罠に陥って、捕えられている人たちとして見ています。もちろん、そのような人々を救いへと導かれるのは神ですが、神は「主のしもべ」のふさわしい働きを用いて、それを可能にされるのです。
真の教師として立つことは容易ではありません。神の助けと兄弟姉妹たちの祈りを最も必要としている働きなのです。
このメッセージは2021.7.18のものです。