失われた者を見出すために

 

「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)

 ヨハネの手紙第一4章9節には「神はそのひとり子を世に遣わし、・・・」とあります。父なる神はご自分のひとり子(キリスト)をどのような目的をもって世に遣わしたのでしょうか。結論から言うならば、失われた者たちをキリストを通して見出すためです。

 ルカの福音書15章には、「失われたもの」のたとえ話三つ(「失われた羊」「失われたドラクマ銀貨」「失われた息子たち」)が連続していますが、そのうちの二つをとりあげて見ていきましょう。たとえに共通するのは、所有者の失ったものに対する愛情です。言い換えるなら、失われているという悲しみや痛みです。だれでも捜しものをした経験はあることでしょう。その捜しものが自分にとってどれぐらい大切なものであるかによって捜す熱意が違ってくることでしょう。一匹の羊を失った羊飼い、一枚のドラクマ銀貨を失った女性にとって、その一匹その一枚はとても大切なものでした。ですから、二人は「見つけるまで」(4,8節)捜そうとするのです。簡単に諦めることはできません。次に共通するのは見出した喜びです。失ったものが重要であればあるほど、それを見出した時の喜びは大きいものとなります。羊飼いも女性も、見出した喜びを自分の内だけには留めておくことはできずに、「友だちや近所の人たちを呼び集め」(6,8節)て、その喜びを分かち合いたいと思っています。

 主は二つのたとえ話をほぼ同じことばで閉めくくっています。「それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら」「喜びがあるのです」と(7,10節)。主が語られたたとえに登場する失われたものを捜している羊飼いや女性とは、キリストを遣わされた父なる神のことを指しています。失われた羊や銀貨は、神に背を向けて失われている人間を指しています。

 羊にとって羊飼いのもとにいないことは、最終的には滅びを意味します(参 Ⅱペテロ3:9)。また銀貨にとって埋もれたままで人の手にないことは、ないのも同然でその存在意義を失うことを意味します。パウロは、神から失われた人の状態について「その思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなった」(ローマ1:21)と表現しています。失われた状態では、人は自分の存在意義をしっかりと見出し、確かな平安や希望をもって生きることはできません。神が失われた人を見出したいと願っているのは、人々がご自身に立ち返り、それらを見出してほしいからです。

 今年の6月5日、拉致被害者家族連絡会の前代表の横田滋さんが87歳で亡くなられました。43年に及ぶ、娘のめぐみさんを捜し出して見出そうとする悲痛な訴えはついにかなえられませんでした。神もご自身から失われた者たちを熱心に見出したいと願っておられます。そのためにひとり子を惜しまれることはありませんでした。神が失われた者をご自身のものとして見出し喜ぶためには、人の側の応答が必要です。それは自らが失われていたことを認めて、神が立ち返るために遣わされたひとり子に信頼するということです。このクリスマスに、自分が失われていたことを認めて神に立ち返りませんか。神はあなたを大喜びで受け入れてくださるのです。

                  このクリスマス・メッセージは2020.12.20 のものです。