罪の赦しの権威をもつお方 マルコ2章1-12節

 主イエスがガリラヤ宣教の拠点としておられた「カペナウム」に戻って来られたときのことです。主のもとに、「中風の人」が四人の男たちに運ばれてきました。しかし、主のおられた家には大勢の人がいて、主に近づくことさえできない状況でした。彼らは屋上にあがり、屋根に穴を開けて、主のおられるところに中風の人をつり下ろすという大胆な行動に出ました。主は彼らの行動を「何という非常識なことを!」と非難されるどころか、「彼らの信仰を見て」、中風の人に「あなたの罪は赦された」と言われました。このことばを巡って、そこに居合わせた律法学者との間に対立が生まれました(7節)。主は律法学者の「だれが罪を赦すことができるだろうか」との非難の思いに答えて、ご自分が罪を赦す権威をもっておられることを示すために、中風の人を癒やされました(10,11節)。この出来事から私たちはどのようなことを読み取ることができるでしょうか。

 第一は、男たちの信仰です。主はすでに大勢の病気の人々を癒やしておられたので、その噂は広い範囲に知れ渡っていたことでしょう。彼らは、主なら必ず癒すことができるという信仰をもってやってきました。しかし、人垣のために主に近づくことはできませんでした。彼らは障害を前にしてあきらめたりひるむことなく、なんとか主に近づく方法はないだろうかと考えて大胆な行動に出ています。彼らは信じたように行動しているのです。私たちは口先では信仰を告白していても、実際いざ行動となると信じたように行動していないことが多くあるのではないでしょうか。

 第二は、四人の男たちは一つの目的のために一致協力しているということです。四人は、きっと寝床の四隅を持っていたことでしょう。もし誰かが手を緩めて離したら中風の人は外に放り出されていたことでしょう。私たちが一人でできることは限られているかもしれません。しかし、お互いができることをもって協力し合えるなら、一つの目標を成し遂げることができるのではないでしょうか。お互いが内輪もめして争っていたなら、力を結集するどころか、交わりを保つことさえ難しいでしょう。

 第三は、中風の人は求めた以上の恵みにあずかることができたことです。中風の人は罪の赦しの必要性を感じてやってきたわけではありません。主は中風の人に「あなたの罪は」と言われました。主はその人が他の人よりも罪深い者として見ているのではなく、すべての人が抱えている問題としての罪に言及しておられるのでしょう。人が抱える大きな問題は「罪」です。罪の醜さ、悲惨さ、刑罰の恐ろしさが正しく理解できないなら、その赦しの恵みの大きさもわからないでしょう。

 深刻な病気を抱えている人にとって、体の癒しと罪の赦しを比較するときに、罪の赦しの恵みが小さく思えるかもしれません。しかし、体が一時的に癒やされても、私たちはいつか死を迎え、神の前に罪を問われることになります(参 ヘブル9:27)。罪赦された者だけが神に受け入れられるのです。なんと大きな恵みでしょうか。

 第四は、主は罪を赦す権威をもっていることを実証しておられるということです(このポイントの説明はスペースの関係で省略します)。

 罪の赦しは、キリストを信じる者に約束されています(参 ルカ24:47,使徒10:43,13:38)。罪の赦しのために主が払われた代価は、尊いご自身のいのちです。主の尊い犠牲を通して、罪赦され、神と和解し、神とともに歩むことができることはなんと幸いでしょうか。


             このメッセージは2022.10.9のものです。