永遠のいのちと律法(行い)ルカ10章25-37節

 罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6章23節)。

 

 主イエスが語られたたとえ話の一つに、「よきサマリア人のたとえ」があります。エルサレムからエリコに下る道で強盗に襲われ、半死の状態で横たわる人と、そのそばを通りかった三人の物語です。その現場に最初に通りかかったのは神殿で神に仕える祭司、次に通りかかったのは祭司の補佐をしていたレビ人でした。彼らこそ、同胞の隣人にその愛をあらわすことが期待できる人々でしたが、彼らは関わりを避け、同胞を見捨てて通りすぎて行ってしまいました。最後に通りかかったのは、ユダヤ人から軽蔑されていたサマリア人でした。彼は予想に反して、半死の状態のユダヤ人に近づき、適切な応急処置を施し、宿屋へと運び、介抱のための出費も惜しみませんでした。

 主がこのようなたとえ話を語られたのは、律法の専門家が「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」との質問したことに端を発しています。主は彼の質問に対して、「律法」をどのように理解しているかを逆に尋ねられました。すると彼は、神を愛することと隣人を愛することを命じていると答えました。それを受けて主は「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます」と答えられました。

 主と律法の専門家のやりとりはここで終わらず、彼は「私の隣人とはだれですか」と、主に二回目の質問をしました。彼は隣人を愛することができると思っていました。それで、主に隣人を定義させ、自分が律法を守ることができることを示そうとしたのでした。

 主はたとえ話の中で、彼が隣人とは一度も考えなかったであろうサマリア人を登場させて、彼の隣人を愛することができるという高慢な思いを打ち砕かれました。

 今回の主と律法の専門家のやりとりの中で、「永遠のいのち」と「律法」の関係を正しく理解することが大切です。まず「永遠のいのち」とは、ユダヤ人が切に求めていたものです(参 ヨハネ5:39,ルカ18:18)。それは「滅び」と対極にあるものであり(ヨハネ3:16)、神との正しい関係にあることを意味します。「救い」と言い換えることができるでしょう。


 一方、「律法」とは何でしょうか。それは十戒に要約されるように神のきよい御心です(ローマ7:12)。それによって神が私たちに何を願っているかがわかります。しかし、律法は残念ながらそれを守る力までも与えるものではありません。むしろ、律法を守れない者を罪人として断罪し、呪いを宣言するものです(ガラテヤ3:10,ローマ3:20)。もし律法を完全に守ることができる者がいたなら、その者こそ律法を行うことによって「永遠のいのち」を得ることができたでしょう(ガラテヤ3:21,参 ローマ7:10)。しかし、私たちはだれも神の前に自分を正しいと主張することはできません。そこで、律法は“行ない”によってではなく、キリストを信じる“信仰”へと導く役割を果たすことになるのです(ガラテヤ3:24「律法は私たちをキリストへと導く養育係となりました」)。

「永遠のいのち」(救い)は、律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって約束されている賜物です(参 ローマ6:23,ヨハネ3:36,6:47)。行いによって得ようとする人々は、自分のうちにある罪の現実、その醜さ、悲惨さ、恐ろしさを正しく理解していないのです。自らの罪の現実がわかるとき、そこから救われる必要性もわかることでしょう。そして、神がその罪から救うためにどのような愛をもって御子を犠牲にしてくださったかもわかってくるのです(参 Ⅰヨハネ4:9-,ローマ5:8-)。


               このメッセージは2021.11.21のものです。