種まきのたとえ マルコ3章31節-4章20節


 マルコはこれまで主イエスが「教えられた」(参 1:21,2:13)ことに言及してきましたが、その内容についてはあまりふれることはありませんでした。しかし、この4章では五つのたとえをとりあげています。まず2-8節には「種まきのたとえ」があり、10-13節にはたとえを用いる理由が説明され、14-20節にはたとえの解説があります(21-23節:「明かりのたとえ」、24-25節:「秤のたとえ」、26-29節:「成長する種のたとえ」、30-32節:「からし種のたとえ」)。

 主は「舟」を講壇にして、陸地にいる「非常に多くの群衆」に「多くのたとえによって教えられ」ました。ここで語られた「種まきのたとえ」はその一つです。マタイやルカにはマルコよりも多くのたとえがあります。主のように多くのたとえを用いて効果的に教えられた人はいないと言っていいでしょう。

 「たとえ」(パラボレー 英語「parable」)とは、「パラ」(「横に、かたわらに」の意味)と「ボレー」(「投げる、置く」の意味)からなる語です。知られていないことの横に知られているものを置いて教える手法です。一般的には「地上のことばで語られた天上の真理」、「天的な意味をもつ地上の物語」と定義されたりしています。

 主はなぜ、たとえを用いて教えられたのでしょうか(11節)。主は「あなたがた」(11節)と呼んでいる弟子たちにはたとえの意味を個別に明らかにしておられますが(14節-、34節)、「外の人たち」(ご自身を信じない人々、批判する人々)にはそうされていません(二種類の人々を区別している)。たとえは、真理に対して心を開いて求めようとする人々とそうではない人々を振り分けるものとなっているのです。たとえは、一般的には人々の関心を呼び覚まして真理を求めさせるものですが、心を閉ざす者には結果的には真理をわからなくさせてしまうものであったのです。

 「種まきのたとえ」(並行記事:マタイ13章、ルカ8章)では、蒔かれた種は四種類(「道ばた」、「土の薄い岩地」「茨の中」「良い地」)の土地に、それぞれ「落ちた」とあります。解説を読むと「種」は「みことば」を意味しています。種が落ちた四種類の土地は、「みことば」を聞いた人々、すなわち、みことばの受け止め方の違いを意味しています。

 「道ばたに落ちた種」は芽を出すことさえなく、取り去られてしまいました。みことばは聞いた人の耳には入っても心に届くことはなかったのです。次の「薄い岩地に落ちた種」は、芽を出しましたが、土から必要な水分や養分を吸収することができなかったので太陽の熱によって枯れてしまいました。一時的な感情によって受け入れられたみことばも、しっかりとした根を張ることができかったので、外圧(「困難や迫害」)には耐えることができなかったのです。次の「茨の中に落ちた種」は、芽を出し根を張りある程度成長はしましたが、世俗的な思い(「この世の思い煩い、富の惑わし、そのほかいろいろな欲望」)に支配されて生育がとどめられ実を結ぶには至りませんでした。最後の「良い地に落ちた種」は、みことばを心を開いて受け入れ、みことばへの従順によって豊かな実を結びました。

 この4章には「聞く」ということばが多く出てきます。たとえの前後に「よく聞きなさい」(3節)「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)とあります。私たちは今、みことばに対してどのような姿勢で応答しているでしょうか。四種類の土地の中のどの土地にあたるでしょうか。


        このメッセージは2024.1.21のものです。