もうひとりの失われた者 ルカ15章25-32節

 

 ルカ15章の「失われたもの」のシリーズのたとえの三番目には、愛情深い父親と二人の息子が登場します。その第一幕ともいうべき前半(11-24節)には「弟」が、第二幕ともいうべき後半(25-32節)には「兄」が登場します。弟が父から失われていたことは、父との縁を断ち切って財産をもって出て行ったことによって明らかです。しかし、実は兄も失われていたのです。兄は父のそばにいて従順に仕えているように見えたので、その失われ方がよく見えないだけなのです。

 さて、兄が父から失われていたことは、どのような点から見ることができるでしょうか。

 まず、自分を正しいと考えていることに見ることができます。無一文になって帰ってきた弟を父が無条件で赦し、喜びの宴会を開いていることを知った兄は、怒りを露わにして父に「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません」(29節)と語っています。その言葉を父は否定していませんが、父を神に置き換えて考えれば、神の前に「あなたの戒めを破ったことは一度もありません」と言える者がはたしているでしょうか。聖書はすべての人が神の前に罪人であり(参 ローマ3:10)、悔い改めて罪の赦しを必要としていることを教えています(参 Ⅱペテロ3:9)。

 兄の自分を義とする姿は、主を批判したパリサイ人を指しています。主が語られたたとえ話に登場する「パリサイ人」は「取税人」を軽蔑して、自分は彼と違う人間だと誇っています(ルカ18:11-)。兄は戻ってきた弟を軽蔑して「自分の弟」(30節 直訳「あなたの息子」)として認めていないことが分かります。自分の正しさを主張する者は誰でも神から失われているのです。

 次に、赦しが神の恵みであることを知らないことに見出すことができます。兄は父が弟を無条件で赦し、息子として受け入れていることに怒りを覚えています。父とその家の名誉を深く傷つけた者が、そんなに簡単に赦されていいはずがないと考えているのです。もし父の弟に対する対応がもっと厳しいものであったなら、兄はここまで怒らなかったかもしれません。

 兄は父の対応は誤っていると考えています。そして、弟と自分に対する父の対応は不公平であり、自分のためには安価な「子やぎ一匹」さえも自由にさせてくれない、と恨みがましい思いをぶつけています。

 パリサイ人たちは自分たちの善行によって神に受け入れられていると考えています。しかし、罪人に対する神の赦しは行いによって得られるものではなく、神の恵みなのです(参 エペソ2:8)。自分の義を誇り、赦しが恵みであることを否定する者は神から失われているのです。

 最後に、父が受け入れる者(弟)を拒んでいることに見出すことができます。なぜなら、それは父自身を拒むことであるからです。兄は物理的には父のそばにいましたが、その心は父から離れていたのです。神は人がご自身のもとに立ち返るなら大喜びしてくださるお方です(7,9,32節)。その父の喜びを分かち合うことを拒む者は失われているのです。

 パリサイ人たちは、主イエスがなぜ取税人や罪人を受け入れて親しい交わりをするのかを理解できません(2節)。それは、彼らを悔い改めに導き、神に立ち帰らせようとする主の熱意なのです。

 全く病識のない人に治療を受けさせることが困難なように、正しいと考えている人を悔い改めに導くことは困難です(参 ルカ5:31,32)。人間的に善良で正しい人の方が、かえって自分の失われていることを自覚しにくいために、神に立ち返ることが難しいのはなんとも皮肉なことです。

                 このメッセージは2024.1.7のものです。